真田幸隆

sanada-yukitaka六文銭を始めに旗印として使用した、真田家中興の祖。

甲斐国の戦国大名であった武田氏の家臣。
信濃の在地領主で、昌幸(信繁の父)ら息子三人とともにと共に、武田二十四将にも数えられる。

幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪すると、一徳斎と称したと言われます。
諸系図では幸隆(ゆきたか)とされますが、その他においては幸綱ともされ、幸隆は晩年に改めたものであると考えられいます。(「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも)

出身は信濃小県(ちいさがた)郡の名族海野(うんの)氏で、海野平合戦でいったん所領を失ったあと、武田晴信(後の信玄公)に仕えて旧領を回復しました。
以後も武田家の信濃先方衆として活躍して、後の真田氏の礎を築きました。
信繁の祖父にあたる人物です。

幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないので、様々な見解があり確定していないのが現状です。そのことは、もともと海野氏の傍流である真田家を、彼自身が大きくしていったことをあらわしていると思います。

幸隆が活躍した時代、甲斐では守護・武田氏による国内統一が行われ、次に信濃への進出を開始していた時期にあたります。武田信虎(信玄の父)は天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻しました。
同年5月23日の海野平合戦により海野一族は敗北して上野へ亡命している。幸隆が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず翌天文11年(1542年)に独断で関東管領の上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開しました。

武田晴信(信玄)につくことで勢力を拡大

幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復。
『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたといい、江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦している。
また、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝えています。
初期の軍役は10騎程度と推定する説がありますが、功名を重ねた後年には200騎程の増加。武田家臣団内での存在感も高めていったと考えられています。

戸石城攻めで幸隆は、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗、しかし翌天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸隆の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという伝説的な活躍も。

天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復。
義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、以後、川中島の戦いを展開することになります。
幸隆は対長尾(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねました。

永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号しました。

永禄4年(1561年、最も激しい戦いとなった第4次の川中島の戦い)では、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたとされます。この時に昌幸は初陣。
永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には獄山城を、永禄10年(1567年)には白井城と次々に攻略。
武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようで、これは譜代衆並みの扱いであることから、真田家が幸隆時代に既に一定のポジションを獲得していた裏付けにもなっています。

永禄10年(1567年)、家督を信綱(昌幸の兄)に譲って隠居。
このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動しました。

天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死。享年62。墓所は長谷寺になります。

真田家の旗印である「六文銭」は、三途の川を渡るための船賃という不吉な意味ですが、幸隆はかつて仕えていた山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟でこの旗印を用いたと伝わっています。

出典:ウィキペディア

長野県長野市松代町の長国寺所蔵(肖像画)

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