真田昌輝

「我が両眼なり」は昌幸ではなく、昌輝?

真田幸隆の次男。信綱の弟で、真田昌幸の兄にあたります。

武田家では、騎馬50騎持の侍大将で、武田二十四将にも数えられました。長篠合戦で兄・信綱とともに奮戦するも討死しています。

小姓として武田信玄に近侍したと言われ、器量を見抜いた信玄からは、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢されました。

信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っています。
※昌幸が「我が両眼なり」と称せられたと言う逸話もありますが、兄である昌輝の説もあり、真偽のほどは定かになっていません。いずれにしても、この当時の真田家の四兄弟(信綱、昌輝、昌幸、信尹)は父・幸隆が武田家譜代の家臣でない(新参者)にもかかわらず厚遇されていることから、みな、優秀であったことに間違いはありません。

 

兄・信綱とともに戦場を駆け抜けた豪将

『甲陽軍鑑』では、信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄・真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍、信州先方衆の副将格まで出世します。
(※なお、所領は真田郷の周辺に与えられたと思われるが、在城地などは不明で、兄・信綱とともに出陣する事が多かったのですが、単独でも出陣、戦功を挙げています。)

永禄11年(1568年) 信綱とともに、駿河国攻めの先鋒に抜擢

永禄12年(1569年) 三増峠の戦いでは信綱や内藤昌豊とともに殿(しんがり)軍を務めて戦功を挙げています。

そして、天正3年(1575年)5月の長篠の戦い 最右翼の馬場美濃守、そのすぐ左翼の兄信綱のさらに左横に陣取り、右翼部隊の一端を担いました。5月21日の設楽原決戦では、織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは、首級を挙げるなど奮闘しますが、深手を負い奮闘虚しく信綱とともに討死しました。享年33歳。設楽ヶ原には今も墓が現存しています。

 

その後も家系は存続

昌輝の子、真田信正は徳川家に仕え、子孫は越前松平家に仕えました。現在も越前真田家として存続しています。

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