小田原征伐~真田・名胡桃城が発端に~

小田原征伐までの流れ

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が惣無事令違反を名目に起こした征討。天皇は後北条氏討伐の勅書を発してはいませんでしたが、当時、太閤の立場にあった秀吉は、天皇の施策遂行者という名分を備えて戦いに臨みます。

1580年(天正8年)、北条氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門に対しても影響力を及ぼし、実質的な当主として君臨しました。

そして2年後の天正10年、武田氏の滅亡、同年末の本能寺の変で信長が自刃。織田家臣の滝川一益を敗退させた神流川の戦いを経て、武田遺領の確保を目指した徳川家康との間に天正壬午の乱が勃発します。

一時は信濃の大半を支配下に置いた北条でしたが、武田遺臣の真田昌幸が離反。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎え、武田遺領のうち北条氏が上野(こうずけ)、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和の道を選びました。
しかし、徳川傘下となった真田昌幸は、勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒。徳川氏からも離反して上杉景勝を頼ることになります。(※詳しくはこちら「天正壬午の乱」)

 

この当時、北条家は最大の版図を築いています

これ以後、北条氏は徳川氏との同盟締結により、全軍を関東に集中。この頃には既に、房総南部の里見家を事実上の従属下に置いており、北関東に軍勢を集中させています。
やがて、一族の悲願である関東制圧を目前に、奥州の伊達政宗とも同盟を結ぶなどし、勢力を拡大。しかし、これに危機感を抱いた、周囲の佐竹義重、宇都宮国綱、佐野房綱らを秀吉に近づけるとになり、豊臣政権側の北条氏に対する警戒は日増しに強まるのでした。

 

沼田領問題の裁定と名胡桃城事件

そんな最中、真田氏との沼田領問題について、一旦は秀吉の裁定により、紛争地域の3分の2を北条領とする事で和解。
秀吉は和解の条件として、氏直の上洛を要求しています。(※これは徳川家康が豊臣政権に従った時にも条件の一つとして行われており、上洛以後は過去の敵対行為は一切不問としています。)
ですが、北条・真田双方ともに仲裁案には不満があったと考えられ、特に北条氏直の上洛の話は実現していません。

代わりに板部岡江雪斎を使者として送った北条家。この際、氏政が上洛するという返事もあったと言います。
ところが、天正17年(1589年)11月、北条方で沼田城将・猪俣邦憲(範直)による(真田氏の墳墓があったため、特に真田側の領有とされていた)名胡桃城占領と言う事件が発生。これに対し秀吉は北条氏の惣無事令違反を非難して、その討伐令を全国の諸大名に通知しました。

※猪俣範直の名胡桃城占領に関しては独断でなく、同時期に北条氏邦が宇都宮に侵攻していることから、氏政の指示で行ったという説もあります。

同年12月13日、秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発しました。

 

いよいよ大規模な籠城戦へ

北条氏側は関東諸豪制圧の頃から、徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど万全の戦闘体制を整えていました。
そして、ある程度の豊臣軍の展開や戦略を予測していたと言い、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城も終わらせています。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めるなど大規模な準備を進めます。

 

秀吉天下軍の小田原征伐布陣は下記の通り
主力(約17万):豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、加藤清正、福島正則。

水軍(約1万):長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。

北方隊(約3万5千):前田利家、上杉景勝、真田昌幸。

北方隊の活躍に関してはこちらをご覧下さい。「小田原征伐と真田家~信幸の忍城攻め~

 

豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら、主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針でした。
一方、兵力で劣るとは言いながらも北条氏側も5万余の精鋭部隊を小田原城に集結。そこから最精兵を抽出して、山中、韮山、足柄の三城に配置しました。

 

征伐の開始

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1590年(天正18年)春頃には豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側はゲリラ戦法を以ってこれに対抗し、これには兵糧を焼くなど一定の戦果があったと言います。豊臣軍の兵は食糧不足に陥り、略奪や狩猟などでなんとか食糧を確保するという事態に。

しかし、3月27日には秀吉自身が沼津に到着し、29日には進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始しました。

 

小田原城包囲

やがて、小田原包囲戦が始まると秀吉は氏直の戦意低下のため、石垣山に石垣山城を築き、茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開きます。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じ、富と権力を誇示するための示威行為を小田原を中心として繰り広げることになりました。

 

小田原開城へ

5月9日には後北条と同盟を結んでいた奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請に応じて本拠から小田原へ参陣。
開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われています。

やがて、北条側から離反の動きが見えるようになります。6月初旬に家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去。

6月16日には、松田憲秀の長子であった小笠原政晴が豊臣側に内通していたことが発覚。政晴は氏直により成敗されました。

また、その数日後には氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去。(※自害と見られています。)

さらに6月23日、北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが北条側の士気低下に拍車をかけました。

そして、6月26日には石垣山一夜城が完成したことも北条側に精神的な打撃を与えます。

このとき、北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は月2回ほど行われていた北条家における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになってしまいます。

6月に入ると、氏房、氏規、氏直側近が、家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進行。当初、伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件で講話交渉が行われたとする説もありますが、実際には北条領は家康に与えられることが決定しており、4月中旬、伊豆では家康の領国化が始まっています。

7月5日、氏直は雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられました。

 

戦後処理と北条家の滅亡

戦後、秀吉は、前当主である北条氏政と、御一家衆筆頭として北条氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に、開戦の責があるものとして切腹を命じます。

そして、7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせました。

7月9日、氏政と、その弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。

7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹しました。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかったと言います。

その氏規と当主氏直は家康とは昵懇の仲ということもあり、助命され、紀伊国高野山に追放さました。

 

秀吉の天下統一

一方、小田原城開城後も未だ戦いを続けていた忍城は、氏長の降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城。
これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡、秀吉は天下を統一した。
秀吉はその後、関東および奥州の諸大名の措置を下しました(宇都宮仕置)。北条の旧領は当初の予定通り、そのまま家康にあてがわれています。

 

真田家の小田原征伐での活躍に関する詳細記事はこちら

小田原征伐と真田家~信幸の忍城攻め~

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