上田城、築城のお話し~昌幸・その独立への過程~

上田城築城にまつわる昌幸の謀略とそのストーリー

以前にも、当ブログのカテゴリー「真田丸を楽しむポイント」の記事投稿「まさにファンタジスタ!知将・昌幸」(少しふざけたタイトルにしてみました・すいません)でも少しだけふれました、上田城築城についてのお話しです。

真田丸でも大きく描かれる2度の対徳川迎撃戦。その舞台となるのがこの上田城です。

この上田城、

もともとは「家康の命令で築かれたお城」だったのです

天正十年(1582年)の武田家滅亡→本能寺の変による織田信長の死→北条家の味方についていた昌幸は、次に北条と敵対していた徳川家康に鞍替えします。

しかし、その一月後には、徳川・北条の両家が和睦

その条件のひとつが、真田の領地である「上野沼田(こうずけぬまた)・吾妻領(あがつまりょう)」の北条家への引き渡しでした。※後に昌幸VS家康の遺恨の種となります。

家康はこの翌年、東信濃の残党征伐を目的に、昌幸からの要請に応えるかたちで出馬。この1か月半ほどの間に家康は甲府に滞在して、敵対する上杉との防衛線として、上田城の築城が始まりました。

 

そして家康の命令は昌幸の差し金でした。

この家康の甲府滞在の際、昌幸は他の信濃諸将とともに家康のもとに出仕しています。

昌幸は「国中」から「国端」へ出て城を築き上杉と対峙したいが、自力では無理なので家康に協力して欲しい旨を伝えます。これに家康は了承。「上田城築城の命を家康が発する」流れへとなります。

※このことこを裏付ける資料として家康の家臣・大久保忠世が、築城の普請にあたっていた。というものも現存します。

 

その時、上杉勢は

一方、上杉勢は上田城築城を妨害するために、配下の北信濃勢を動員。築城の現場までわずか数キロのところに大集結。しかし、妨害したという史実や形跡は一切ありませんでした。

理由としては、上杉がこの築城を昌幸だけのものではなく、徳川家も含めたものであること。また、すでに上杉と秀吉は同盟を結んでおり、同じく秀吉と友好関係にある家康のところへ軍勢を差し向けるわけにはいかなかったと考えられます。

 

そして昌幸、築城直後に徳川と断交

家康は天正十一年(1583年)、甲府から浜松へ帰還。実質的に上田城を真田家のために築城してあげた。というのが正しい見方です。

この時、家康としては昌幸に恩を売ったかたちにもなり、前述の、北条への沼田引き渡しの件を、再度、真田に打診します。

 

しかし、昌幸はこの命令を拒否

上杉家に急接近する昌幸は、北条家から真田に派遣された使者をも惨殺しています。(上杉家はこれを称賛)

この後、昌幸は上杉寄りの姿勢を維持しながらも、徳川と完全敵対するのを、2年後の天正十三年までは避け(これもミラクルなお話しなのですが・・・)、遂に第一次上田合戦へと至ります。

※この前年、家康は室賀正武に命じて、昌幸暗殺を企てもしますが失敗に終わっています。

 

昌幸は当時の大きな勢力の力関係と、家康そのものの力を利用し上田城を完成。そのまま上田城主にちゃっかり収まって、徳川とは決定的な敵対関係にいたることになります。

 

 

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