小山田信茂

大河・真田丸では温水洋一さんが熱演

祖母が武田信縄(信玄の祖父)の娘(信虎の妹)で、信玄の従甥に当たる人物。
江戸期には、穴山梅雪や、高坂昌信とともに武田二十四将にも数えられた、武田家の勇将です。

天文21年(1552年)正月には父の出羽守信有が病死し、兄の弥三郎信有が家督を継ぎます。しかし、弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去すると今度は信茂が小山田家の家督を継ぐことになりました。

甲陽軍鑑によると、武田氏と長尾景虎(上杉謙信)が天文16年(1547年)10月19日に信濃海野平においてはじめて合戦(第一次川中島の戦い:史実は天文22年)を行ったとき、「小山田左兵衛」が御先(先陣)を務めたとあります。
※ただし「左兵衛」は信茂の官途名なのですが兄の弥三郎信有を指しているとの指摘も。

 

信玄・勝頼とともに緒戦に参加

永禄11年12月には武田氏と今川氏の同盟が断絶。武田氏による今川領侵攻(駿河侵攻)が開始されます。その際、信茂は先陣を務め、翌永禄12年(1569年)には今川領への侵攻は相模後北条氏との甲相同盟の断絶も招き、北条氏との抗争も発生さいました。『甲陽軍鑑』に拠れば信茂は駿河で合戦を続けていたとしています。同年10月6日には相模三増峠において北条方との三増峠の戦いが発生。この時、信玄は信茂に対して郡内から武蔵国八王子城(東京都八王子市)を攻め、さらに小田原城の支城である滝山城(八王子市)での合流を指示したと言われています。(こちらも諸説あるようです。)

その後、元亀元年(1570年)8月には伊豆韮山城・興国寺城攻めが行われており、信茂は山県昌景、武田勝頼とともに韮山城攻めに加わりました。

そして、元亀3年(1572年)10月に信玄が織田信長と断行すると、「西上作戦」と呼ばれる軍事行動を開始。この作戦で信茂は先陣を務め、信長の同盟国である三河国の徳川家康の領国への侵攻を行い、同年12月には徳川方との三方ヶ原の戦いが発生しています。

やがて、信玄が死去。勝頼の時代に。

元亀4年7月に家康は三河国長篠城(愛知県新城市)攻めを開始し、勝頼はこれに対して、武田信豊、馬場信春とともに信茂を後詰に派遣したと言われます。長篠城の落城後、勝頼は反攻を開始、信茂もこれに同行。
天正3年(1575年)には長篠の戦いが勃発。信茂はこの戦いでは徳川勢と競り合いました。
※長篠の戦いで武田方は大敗し多くの重臣が戦死、その後の滅亡のきっかけとなりました。(この際には、信茂は勝頼の身辺を警護し退却したと言われます)
※また、この戦いに関して、信茂は馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、原昌胤らとともに勝頼を諌めたという逸話も。

天正6年(1578年)3月、上杉謙信の没後におこった、上杉景勝・上杉景虎の間で家督を巡る御館の乱が発生すると、勝頼は甲相同盟に基き、北条家から上杉家に養子に入った景虎支援を要請されて越後へ出兵。これに対し景勝は勝頼と和睦交渉を試み、勝頼はこれに応じて景勝・景虎間の和睦を仲介します。この際、信茂は景勝との交渉において取次を担当しています。

この後は大河・真田丸の第1話を参照してください。(当ブログのストーリーダイジェストはこちら

 

武田家滅亡のとどめを刺した、背徳の将

武田家の重臣、山県昌景をして「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評されたり、勝頼期の長篠の戦いにおいては、家中最大の3200の兵を動員したとされるなど、有能な人物であったと思われます。

その最期は、織田信忠から武田勝頼への不忠を咎められ、処刑されるという結末。他にも裏切った武将は山のようにいたのですが、最後の最後に大トリを飾ってしまった信茂には、「背徳の将」のイメージがついてまわりますね。(逆に言えば、ギリギリまでは逃げなかったとともとれるのですが・・・)

真田丸の第1話でも、昌幸が勝頼に岩櫃に来ることを提案する直前、信茂が武田のプライドを捨てず、戦おうと言うシーンがあります。信茂の気持はその通りだったのではないでしょうか。

その他、真田丸で脇を固める登場武将についての投稿記事はこちら

こちらもあわせてご覧ください裏切りについて~梅雪や信茂~

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