信幸と信繁~その対極にある人生②~

徳川系と豊臣系、兄弟それぞれの歩み・・・

信幸と信繁~その対極にある人生①~からの続き

 

信幸の結婚は天正十七年(1589年ごろ・北条合戦の前年。時代背景は、いよいよ秀吉の天下統一が目前という状況です。)

秀吉の指示により家康に出仕することになる兄・信幸。天下無双と呼ばれた、徳川家の重臣本多忠勝の娘・小松姫(稲・いな)を正室に迎えます。(※この時、昌幸の「家康の家臣の娘ごときを息子の嫁に出来るか。」とのクレームから、小松姫は急遽、家康の養女として信幸に嫁ぐことになります。)

そして翌年、前述の小田原合戦で秀吉が圧倒的な勝利を収めると、北条氏の北上野の拠点となっていた沼田城が再度、真田家のもとに返ってくるかたちとなり、その城主に信幸が就任します。

ここで、関東の旧北条領は徳川家に与えられたたため、信幸は組下大名として家康の指揮下に組み込まれることとなりました。

 

文禄三年(1594年)信幸は伊豆守(いずのかみ)、信繁は左衛門佐(さえもんのすけ)にそれぞれ任官。

このことは、二人の兄弟がそれぞれに対して、信幸は昌幸の嫡子として。また、信繁は豊臣家の家臣に列せられ、別に一家を構える資格が与えられたことを意味します。

この直後、信繁は、秀吉の寵臣・大谷吉継の娘・竹林院を正室に迎えています。大谷吉継は当時、秀吉の側近として、石田三成とともに豊臣政権の中枢をになっていただけでなく、知勇兼備の名将としても名声を得ていた、有能な官僚でした。

大河・真田丸のストーリー展開でも予想されることですが、信繁はこの吉継から様々な薫陶を得る機会が多くなることでしょう。まさにゼロの状態から天下人にまでなった秀吉は、人を見る目にかけても相当な能力を持っていたはず。そんな秀吉が吉継の娘を信繁に娶(めあわ)せたのは、信繁の将来性を感じて、豊臣家の優秀な家臣としての活躍を期待したからに他なりません。

 

こうして、兄・信幸は徳川との繋がりを。弟。信繁は豊臣との繋がりを徐々に強めていくととなります。

 

慶長5年(1600年)・関ケ原の合戦へ

秀吉の死後、安定していた情勢は再び乱れます。専横を強める徳川家康は、会津の上杉討伐を名目として、関東に兵を集めます。上田に戻っていた昌幸と信繁はともに出陣し、同じくして、信幸も沼田衆を率いて出陣します。その時、真田父子のもとに、家康を討つために決起をした石田三成から、勧誘の書状が届きます。

 

書状を読んだ三人が選んだ道。

それは、昌幸・信繁は石田三成の西軍へ。信幸は徳川家康率いる西軍に与するというもの。

ふたりの兄弟のこの決定は、その後の人生の分岐点として、とても大きな意味を持つこととなります。

いわゆる「犬伏の別れ」と呼ばれる有名なシーンへとつながっていきます。大河・真田丸でも大きな見せ場となることでしょう。

 

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