滝川一益①~織田家中では、秀吉や明智光秀以上のスピード出世を遂げた「鉄砲の達人」~

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織田家中では、秀吉や明智光秀以上のスピード出世を遂げた「鉄砲の達人」

大河・真田丸では段田安則さんが演じる武将・滝川一益。信長の「天下布武」の旗印のもと、急激に支配地を拡大する織田氏。その家中にあって、明智光秀や、後に大出世を遂げる秀吉を出し抜いて、一時期は超ハイスピードな出世を遂げたのがこの滝川一益です。いったい彼はどんな人物だったのでしょうか。

その出自は定まらず、諸説あり

どこの誰であるのか、定まった説のない非常にミステリアスな人物です。伊勢あるいは志摩の出身とされる説の他、忍者の里である甲賀出身であるとのものも有力で、甲賀の国人、滝川一勝もしくは滝川資清の子とされます。(※諸説あり)。

まだ、織田家に仕官する以前、いわゆるやんちゃだった一益は、河内国にて一族の高安某(なにがし)を殺したとの資料があります。その罪を理由に追放された一益は、堺に赴き、当時最新の武器であった鉄砲の取り扱いを習得。天下に響き渡るほどの腕前となって織田信長に取り立てられたというストーリー。また、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」との歴史資料もあるようです。

 

織田家臣となった後の活躍

永禄10年(1567年)と同11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略の際には、攻撃の先鋒として活躍。

天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護、この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領しています。

そして、天正3年(1575年)、長篠の戦いでは、鉄砲隊の総指揮を執った一益。最強の武田軍団を敗戦へと追いやった「三段撃ち」は一益の発案だったという説もあります。

また、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わったとされています。

さらに、天正10年(1582年)、信長が甲州征伐を企図。嫡男の信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませると、一益は2月12日に出陣し、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となります。その際のストーリーは、真田家の視点で描かれた大河「真田丸」にても詳しいところです。※真田丸・第2回「決断」

戦後処理として、3月23日に一益は上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられますが、同時に東国取次を命じられました。

※この際、一益は領地よりも、安土名物とも呼ばれた茶器「珠光小茄子」を所望しましたが、信長に認められず、叶わなかったことを悔しがったという逸話があり、一益の人となりを端的に現わしたエピソードと言えます。

その後の一益の動向は、滝川一益②~本能寺の変・信長の死後~をご覧ください。

 

 

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