大谷吉継

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信繁(幸村)の義理の父、大谷吉継。義を重んじて関ケ原で散った戦国武将。

大谷吉継。その出自には色々な説があってはっきりとはしません。母が秀吉の正室(ねね・北政所)の侍女だったことから、秀吉の隠し子との俗説も存在するほど。あくまで一説ですが、吉継を取り立てたのは石田三成とも言われ、近江生まれの同郷の仲とされています。 いずれにしても不明な点がたいへん多く、それは逆に言えば、大名となるのには難しい家柄の出身であることを物語っていると言えます。

(※近年の研究では、青蓮院門跡坊官泰珍の子息で、母は寧・北政所に仕えた女房・東殿であったとされています。吉継の吉も秀吉からの偏諱であったと考えられ、加藤清正や福島正則とも劣らないほど、秀吉に近い存在であったとの指摘があります。)

天正5年(1577年)、信長から播磨攻略の命令を受けて、姫路城を居城とした秀吉。当時、19歳の吉継は加藤清正ら(他に、脇坂安治、福島正則、仙石秀久など。後に大名へと出世していく、秀吉配下、生え抜きの若者たちが並びます。)とともに秀吉の警備にあたります。

 

知勇兼備、人格者でもあった大谷吉継

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、吉継は「七本槍」に匹敵する活躍をみせ、石田三成と共に三振の太刀と賞賛される大手柄を立てました。(同時に、長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させるなど、武辺だけではない一面も垣間見ることが出来ます。)

秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行としても重用しており、天正14年(1586年)の九州征伐では兵站(へいたん)奉行石田三成の下、功績を立てており、この前後で奉行格に列していたことが分ります。

こうして秀吉の信任も厚い吉継は、いよいよ、その秀吉が関白に任官され、天下統一への道がきわまっていくと、天正17年(1589年)、敦賀城主(敦賀2万余石の大名)を命じられ、従五位下・刑部少輔に任官。通称「大谷刑部」と呼ばれるまでに成長します。

 

同郷の三成とは親友の関係、そして関ケ原へ

関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諭したと言います。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに率直に言い合える仲であったことがわかるエピソード。他にも「(三成は)智慮才覚の於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」となかなかにきつい忠告もしています。

一説には、徳川家康とも親しかったと伝えられ、関ケ原のおり、吉継が西軍に与したことを知った家康は非常に狼狽したという逸話も残っています。

そして、慶長5年(1600年9月15日)、関ケ原の戦い。

約1500の兵を率いて、輿に乗り戦う吉継。(この時、ハンセン病を患っていたと伝えられます。)ほぼ視力も失っているなか、自軍の2倍にあたる藤堂高虎、京極高知の軍と衝突。互角の戦いを演じます。しかし、小早川秀秋の裏切りが起きると、戦況は一変。いったんは迎撃しますが、他の隊からも裏切りが現れると吉継の軍は壊滅状態に。家臣、湯浅五郎の介錯で自決。壮絶な最期を遂げます。

 

信繁(幸村)へ与えた影響

大河・真田丸では、大谷吉継を片岡愛之助さん。その親友の石田三成役は山本耕史さんが演じます。

大谷吉継の娘、竹林院は真田信繁の正室で、信繁にとって吉継は舅にあたります。豊臣家での人質生活の長かった信繁は、秀吉にも可愛がられ、やがて豊臣ファミリーとしての性格も濃くしていきます。真田昌幸のふたりの息子、信幸と信繁。兄・信幸は徳川家につき、舅にあたる本多忠勝からの影響も少なくなかったと想像されるように、信繁もまた、人格者でもあり、尊敬できる大谷吉継の影響は大きく受けたはず。この事は、真田丸のストーリーでも印象深く描かれ、その後の兄弟の分岐点の要因となっていくものと思われます。

そして、その信繁の正室・竹林院の配役は、第3回が終了した今日の時点では未発表。信繁を取り巻く女性としては、長澤まさみさん(きり)や黒木華さん(梅)がすでに登場していますが、この竹林院も、九度山での困窮した真田家の生活に、上田地方の紬技術を応用した真田紐を考案、家臣たちに行商させることで生計を支えた。とのエピソードがあり、その登場が待たれます。

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