滝川一益②~本能寺の変・信長の死後~

本能寺の変後、失墜する存在感

6月2日、信長が本能寺の変によって横死すると、北条氏政は引き続き協調関係を継続する旨を一益に伝えています。(※しかし実際には領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していました。)

一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日(遅い!)。そして6月10日、重臣の反対を押し切り、一部の上州の諸将を集め信長父子の死を伝えます。
「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と言ったと伝わります。

そんなさなかの6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行。総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりで、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条の家臣らの間で流れるほどであったとも言われます。

本能寺の変の報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が反乱を起こし沼田城を攻めますが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵とともに駆けつけ、これを鎮圧したしました(沼田城の戦い)。

旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こり、18日に北信の森長可が海津城を捨て美濃へ去り、同様に南信濃の毛利長秀も伊奈を放棄し、甲斐の河尻秀隆は同18日に武田遺臣により殺害されました。

 

北条軍・総勢5万6千が上州に侵攻。

6月16日、信長の死に乗じて、小田原城の北条氏直ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻。

一益は、1万8千の兵を率いて陣を構え北条勢を迎え撃ち、初戦は勝利します。ですが、翌19日の合戦では北条勢に敗北。

20日、一益は人質であった北条高広の次男を返し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたと言います。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。

一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、碓氷峠(うすいとうげ)を越え、21日には小諸城(こもろじょう)に入りました。この時、佐久・小県(ちいさがた)の人質を伴っており、この中には真田昌幸の老母が加わっていたとのこと。
一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりでしたが、木曽郡の木曾義昌が一益の通行を拒否。一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承しました。(真田丸・第7回「奪回」参照)

一益は、27日に小諸城を依田信蕃に引き渡して旅立ち、28日に義昌の居城・福島城で人質を引き渡し、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができました。

しかし、27日には清洲会議が開かれ、一益は出席できず織田家における彼の地位は急落しました。

 

柴田勝家とともに、秀吉と対立

清洲会議後、信長の嫡孫・三法師が織田氏の後継者となりますが、これに信長の三男・織田信孝は不満を持っていた為、三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展します。
天正11年(1583年)正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開きます。一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしますが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も自害し孤立してしまいます。
残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘しますが、7月には降伏。
これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居しました。
その後、伊勢の所領は信長の次男・織田信雄のものとなっています。

 

小牧・長久手の戦いにも参戦していた。

天正12年(1584年)、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げます。(小牧・長久手の戦い)。一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていましたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、秀吉方となっています。
この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略、同年6月16日には伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸させ、先に没収された蟹江城、さらに、下市場城、前田城を占拠しました。
当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間に位置する重要拠点。しかし、山口重政の守る大野城の攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を再び奪還され、蟹江城も包囲されてしまいます。
一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽き7月3日に開城。退去中に攻撃されて、一益は命からがら船で伊勢に逃れたのでした(蟹江城合戦)。

この時、秀吉は一益勢に後詰するべく、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて、7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となりました。

7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられますが、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられました。同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めています。

一益は秀吉の東国外交を担い、天正12年6月、秀吉から佐竹義重(沼尻の合戦に参戦中)への返書の添状、天正13年(1585年)11月、梶原政景への書状にて、秀吉による小田原征伐を予告しています。結果、彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられ、間接的にですが上州での借りを返したとも考えられます。

天正14年(1586年)9月9日に死去。享年は62歳。(一説による。)

 

You must be logged in to post a comment Login