森長可

僅か13歳で家督を継いだ武勇の人

森長可(ながよし)は、永禄元年(1558年)生まれ。真田昌幸と比較すると11歳年下、少し下の世代にあたります。森氏は清和源氏の家系、河内源氏の棟梁を出自に持つ名家。武勇の誉れも高く「攻めの三左」と謳われた森可成(よしなり)の次男でしたが、元亀元年(1570年)に可成が戦死、長兄の可隆も同年に戦死したことで、僅か13歳という若さで家督を継ぎ、織田信長に仕えたと言われます。弟には成利(森蘭丸)。

初陣は、元亀4年(1573年)3月、伊勢の第二次長島一向一揆攻めに織田信忠とともに参加。この時、森長可は15歳ですが、稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、信長よりその働きを称されました。

翌・天正2年(1574年)には、第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加、この時も関成政とともに共に打って出てきた一揆軍を敗走させ、さらに、信忠軍と一揆衆が川を挟んで対峙した際には、船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすという父親譲りの武勇を見せています。これ以後は、信忠配下の与力として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加。活躍しました。

 

武田を滅亡させた甲州征伐にも参陣

武田家を滅亡へとおいやる、織田家の甲州征伐には先鋒部隊として抜擢されました。長可は、団忠正とともに木曽口から信濃国の武田領へと侵攻、またたく間に松尾城の小笠原信嶺を降伏させると、これを見た飯田城の保科正直が潰走。逃げる正直の部隊を追撃し、数十騎を討ち取る活躍を見せています。

織田家の信濃入領が始まると海津城に入り統治に取り掛かりますが、信濃の政情はかなり不安定だったようで、上杉と手を結んだ武田旧家臣の反抗にあいます。この時、芋川親正という地侍が8,000人を率いて蜂起すると、稲葉貞通の守る飯山城を包囲。しかし長可は、この一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧してしまうのでした。

 

活躍するも一転、本能寺の変で窮地に・・・

この後の長可は、上杉家の越中魚津城を攻める柴田勝家の救援に、5,000の兵を率いて出兵を開始しています。(同じ年の天正10年です。)上杉領深くまで侵攻した長可軍の働きに振り回された景勝は、魚津城の救援に間に合わず、柴田軍の攻撃によって陥落。上杉軍は越中国における重要な拠点を失いました。

しかし、6月2日に本能寺の変で信長が討たれると、敵地深く進攻していた長可は一転して窮地に立たされます。

6月8日には陣を払って越後から撤退。信長の仇を討つことを決めますが、信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清(出浦昌相)を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動しています。(※このエピソードは真田丸・第6回「迷走」に出てきます。)

この他にも木曾義昌に暗殺を画策されるなど、一筋縄ではいかない信濃からの撤退となりますが、6月24日には無事に旧領への帰還を果たし、その翌日には岐阜城に赴いて、織田信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたと言われています。

帰還後、家臣の離反や裏切りにあい一時は衰退の憂き目にあいますが、積極的に攻める長可は逆に東美濃において大きく勢力を伸ばすことに成功しました。

また外交面では、本能寺の変後、すぐに羽柴秀吉に接近して、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状を、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名でもらって、反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ています。

 

小牧・長久手の戦いで討死・享年27歳。

天正12年(1584年)、秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり、戦が不可避となると、池田恒興と共に秀吉方に付き参戦。数々の武勇を誇る長可でしたが、この戦いではその勇ましさが裏目に出たのか、池田隊とともに先行したまま本隊から取り残された形となった森隊は、単独で徳川軍にあたることとなります。井伊直政の軍と激突して奮戦はしますが、水野勝成の家臣・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死。27歳という若さでした。

父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された森長可。

筋骨たくましい偉丈夫として、戦場での勇ましさを伝える逸話が多い人物です。

 

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