春日信達(高坂昌元)

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父・昌信は昌幸の同僚

父は「逃げ弾正」として知られる、武田氏の譜代家老衆、高坂昌信(春日虎綱)。その次男にあたる人物です。父の高坂昌信は絶世の美男子で、信玄から「浮気の謝罪文」をおくられるほどの寵愛を受けたとも。また、それだけでなく、軍略・兵法にも優れ、武田二十四将にも数えられています。

信玄の奥近習として召抱えられたという父・昌信は、同じく奥近習の真田昌幸と元同僚という関係でした。(昌信が昌幸の20歳ほど年上。)昌信、昌幸の仲も非常に良いものだったと考えられています。このエピソードの詳細はこちら

 

兄・昌澄の戦死で春日家の家督を継ぐ

信玄が亡くなり勝頼の代になると、武田家は長篠の戦で織田軍に惨敗。信達の兄、昌澄が天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで戦死したことで、信達は嫡男となります。その後、謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっていた父・昌信が天正6年(1578年)に死去。信達は家督・海津城代を継承して上杉方との外交を務め、甲越同盟の締結に至ります。

 

景勝により誅殺。

武田氏滅亡後、信長に降伏した後は、武田氏滅亡後に北信濃の領主となった織田家臣・森長可に属します。しかし同年6月の本能寺の変で信長が死去し、旧武田家臣団による一揆などで森長可が領地を捨てて逃亡しようとすると、信達は信濃国衆を母体とした一揆勢を率いてその撤退を阻止するなど、真田などの国衆と行動をともにしました。

この後、信達は上杉景勝に属しますが、真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚して、上杉景勝によって誅殺されました。これにより、高坂氏嫡流は滅亡。このエピソードは真田丸第7回「奪回」に出てきます

さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った長可の弟、森忠政によって信濃に残っていた昌元の一族は残らず探し出され、18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処されたという話も残っています。

運命の天正10年。武田家滅亡、織田信長の死去。と僅3カ月間の間に大事件が頻発します。その運命に翻弄された戦国武将や人々・・・

春日信達(高坂昌元)も紛れもなくその一人と言えるでしょう。

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