昌幸がこだわった沼田領、その攻略戦

家康との遺恨の種になる沼田領。昌幸はどのようにして手にいれたのか

天正2年(1574年)に真田家当主・幸隆が死去。家督を昌幸の兄・信綱が継ぎますが、翌年の長篠の戦では信綱だけでなく、次兄・信輝までもが討死し、三男の昌幸が真田家の家督を継ぐこととなります。

幼いころから、信玄の近くに仕えて現在で言うところの伝令将校のような存在であった昌幸は、真田家の当主となると早々に。上野(こうずけ)での活動を開始。越後国境の沼田城を落とさなければ、武田家は強敵・上杉謙信の脅威に常にさらされることになることから、主君・武田勝頼より上野の状況調査報告を命じられていたのでした。

沼田城攻略に向けて絞られていた昌幸の活動ですが、天正6年(1578年)、上杉謙信が死去すると状況が一変します。上杉家では「御館の乱」と言われる、景勝・景虎の後継者争いが勃発。沼田領のことどころではない状況になったのでした。

 

得意の調略・謀略、駆け引きを駆使して、沼田城を奪取

北条氏政が、三万という軍勢でこの地に北上してくると、援軍の見込みのない城方はあっさり開城。城は北条氏邦(氏政の弟)が預かることとなります。これに対する昌幸は、まず利根川を挟む名胡桃(なぐるみ)城の鈴木重則を調略、寝返らせることに成功します(天正8年)。同様に北に位置する小川城も昌幸に降らせると、このふたつの城を足がかりに、攻撃と調略といった硬軟織り交ぜた作戦で、沼田城に揺さぶりをかけます。

そしてこの年の5月。主将の藤田信吉までもが降伏。正に、まんまと城を手に入れることに成功してしまうのでした。こうして利根郡がほぼ武田方の手中に収まると、昌幸は信頼できる者でこの重要な城の守備を固めたと言われています。

 

同族の粛清、非情な一面を垣間見せる昌幸。

翌年、沼田城の元の城主の子にあたる、沼田景義が城の奪還に動き出すと、昌幸は景義の叔父にあたる沼田城の将を使ってこれを謀殺。また、その年の暮れには謀反の噂の流れた、真田の縁戚にあたる海野氏、岩櫃城番・海野幸光、沼田城番・海野幸景を躊躇なく粛清します。幸光と幸景は、吾妻郡の国人領主の支配を巡り昌幸と対立を深めていた側面があり、親族にあたるといえども絶対的地位の確立には、情け容赦のない一面を見せています。

 

武田家滅亡後の沼田防衛

天正10年(1582年)、主君・武田勝頼が悲惨な最期を遂げ、武田家が滅亡。

この際、昌幸の命で沼田城を守り抜く叔父・矢沢頼綱に対して昌幸は、功労者への所領の大判振る舞いと、牢人衆への兵糧米の分配指示を出しています。(※これには団結を固め、兵力を保持できるよう備える意図がありました。)

この後、沼田や岩櫃の守りを固めた昌幸は、「織田方が越後・小田原にも侵攻する」との風説を流して、上杉・北条に援軍を求める密書を作成し、それをわざと織田方の手に渡るよう仕向けるという謀略を仕掛けます。

あせった武田征伐の総大将・織田信忠は「昌幸を敵に回すと面倒なことになる」と考え、家臣を通じて昌幸に味方になることを打診。デイティールに差異はありますが、真田丸のストーリーと繋がっていきます。

ご承知のとおり、この後の沼田領は滝川一益の管理下に。本能寺の変が起きると、再び昌幸が奪取していよいよ「天正壬午の乱」へと突入します。

※第一次上田合戦直前まで、沼田領をめぐる昌幸と家康の動向など、詳細記事はこちら

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