戦(いくさ)巧者の矢沢頼綱②

真田幸隆の弟、昌幸から見れば叔父にあたる矢沢頼綱。当初は独立性を保持した活動をしていますが、昌幸が継いだ真田家が大きく成長していくにつれ、頼綱の矢沢家はその筆頭家老としての地位を確立していくことになります。

そしてこの頼綱も、幸隆や昌幸に負けず劣らずの戦巧者(いくさこうしゃ)で、なんども攻め込まれた沼田城を僅かな兵で守り切っています。

 

寡兵で沼田城を死守

天正10年、昌幸の離反によって真田と北条の間で軍事的緊張がはしると、北条軍は徳川軍と甲斐で睨み合う中にも拘わらず、主力から5000もの兵を割いて、十月初旬には沼田城攻略を開始します。
沼田城の南端にある支城、長井坂城、森下城は早々に陥落し、北条軍率いる北条氏邦は川額に陣を布きました。

矢沢頼綱は、このまま北条軍が勢いに乗って支城を攻略すれば沼田城の兵の士気が低下するだけでなく、内応者がでるとの危惧を考慮して、自らが最前線で一戦して籠城の士気を高めようと500の兵を率いて出陣します。

 

この時、頼綱64歳。(人生50年と言われた時代です。)

北条の猛将・猪俣能登守の兵1500に対して、3分の一の兵数でありながらも頼綱は激しい野戦を繰り広げます。 猪俣邦憲(くにのり)は有利な兵力で押しますが、頼綱は少数の味方を鼓舞。老齢ではありながらも積極果敢な勇将の頼綱は、陣を崩すことなく押し返します。
当初の劣勢から猪俣邦憲の陣を突き崩した頼綱は、なんと首300を討ち取るまで盛り返し、ついに邦憲を敗走させ大勝果をあげました。

しかし再度、沼田城に北条軍5000の総攻撃が開始されます。

これに対して頼綱は寡兵で籠城、三日間城を守り抜くと、北条勢は沼田城は強襲では落ちないと判断。兵を引きます。
なんと頼綱はこれを逃さず北条の陣に夜討ちを仕掛けるなどして、兵数の優勢に気を抜いていた北条軍に打撃を与え、沼田城の守りを固めました。

このころ昌幸は、依田信蕃と共に徳川勢として碓氷峠・松井田城などを攻めて信濃の北条軍と上野との兵站線を破壊。(真田丸第9回に登場のエピソード
さらに前日、北条軍の退路を断つため、密かに沼田~厩橋を繋ぐ津久田城を攻略するというゲリラ戦が行われました。
北条軍はゲリラ戦に苦しみ、沼田での短期決戦をあきらめると、兵をまとめて厩橋城(前橋城)に退却しています。

8月22日には南信濃の木曽義昌が徳川方へ。
かくして北条家は、10月29日には徳川との和議を成立させるにいたるのでした。

真田家が得意とした、地の利を生かしたゲリラ戦。
もちろん矢沢頼綱もその例外ではなく、局地戦で多数の戦果を挙げています。

昌幸の叔父・矢沢頼綱、その人生についての詳細記事はこちらをご覧ください。

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