鳥居元忠

家康に幼少のころより仕えた側近中の側近

天文8年(1539年)、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として生まれた元忠。
父の忠吉は岡崎奉行などを務めた老臣で、元忠は家康がまだ「竹千代」と呼ばれた頃から仕えた側近の一人です。

家康の三河統一後は旗本先手役の将として戦います。
長兄の忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死、次兄は出家していたため、元亀3年(1572年)に父が死去すると鳥居家を相続しました。

合戦で傷を負い後遺症が残るも、その後も歴戦で活躍

永禄元年(1558年)の寺部城攻めを始め、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦い(※徳川軍が武田勢に惨敗)にも参加します。
諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入。
敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残しました。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいては、石川数正とともに馬防柵を設置したのが元忠と言われ、天正9年(1581年)には、高天神城の戦いにも参戦しています。

天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、家康の背後を襲おうとした北条軍の別働隊10,000を、甥の水野勝成らと共に2,000の兵で撃退します。
北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、その戦後には、家康より甲斐都留郡に領地を与えられ、初めは岩殿城、次に谷村城主となりました。

天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退されてしまいます。(※このエピソードは、真田丸・第13話「決戦」にて)

上田合戦の敗退の後も、重臣として重用されています

天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加。岩槻城攻めに参加しました。
戦後家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられます。この元忠の配置は、常陸の佐竹氏や東北地方の諸大名など、敵対勢力の南下に対する備えであると考えられ、引き続き元忠には、家康からの厚い信任があったと考えられます。

 

家康の絶対的な忠臣・元忠

慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し諸将を率いて出兵。
この時伏見城を預けられたのが元忠でした。

この時、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし
「我は手勢不足のため伏見に残す人数は3000ばかりにてなんじには苦労をかける」と言うと

元忠「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と答えます。

両者共に伏見城に残ることがどういうことかよく理解したうえでのエピソードです。

家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌み交わして別れたとも伝わり、まさに忠義の臣と言える元忠はおとり役を進んで受けいれ、見事に捨て駒の役目を果たすことになります。

この後、家康が出陣すると、石田三成らが家康に対して挙兵。伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平近正らと僅か1,800人の兵力で立て籠ります(伏見城の戦い)。
元忠は最初から玉砕を覚悟であったと考えられ、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺(※徹底交戦を敵方に誇示する行為)。戦い続けます。

 

壮絶な最期、その死は自家の繁栄へと繋がります

そして13日間の攻防戦の末、鈴木重朝という武将と一騎打ちの末に討死、という壮絶な最期を遂げるのでした。享年62歳。当然と言えば当然ですが、その忠節は「三河武士の鑑」と称されたと言います。

家康はその死を悲しみ、元忠の功績を考えて嫡男・忠政に対しては磐城平藩10万石。後に山形藩24万石の大名に昇格させています。
また元忠の子孫が江戸時代に改易の憂き目にあった際も、元忠の勲功があまりにも大きいとして、減封による移封でいずれも断絶を免れました。

主君を変えることが珍しくもなく日常であった戦国時代。家康に対して絶大な信頼を寄せて忠義を貫いた元忠の生き方は、次にくる太平の「江戸時代」の武士像のパブリックイメージとなったのではないでしょうか。

生え抜きの元忠を家康は大切にしたのでしょうし、またそれに元忠は実直に答えのだと思います。自家存続が第一の命題であるこの時代。その後の鳥居家に対して、加封を持ってきちんと答えた家康。だからこそ、このような忠義を示せる家臣が家康の元には大勢いたのだと考えられます。彼らのような武将の活躍が、徳川家の天下統一事業の礎となりました。

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