片桐且元(かつもと)

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茶々(淀君)の浅井家に仕えた戦国武将

且元の出自は近江 浅井家に仕えた信濃源氏の名族、片桐氏。
浅井長政の娘である茶々(淀君)と、豊臣臣従以前から主従関係にありました。

豊臣の時代には豊臣家より豊臣姓を許されるなど中核を担い、江戸期になっても大名として存続した且元は、大和国竜田藩の初代藩主となっています。しかし、その人生の出発地点は決して楽だったわけではなく、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、主家の浅井家・小谷城が陥落。
当時、弱冠17歳の且元も浅井方として織田勢と戦い、幼い頃の浅井三姉妹や大野治長(はるなが)らと共に、落城と主家の滅亡を経験しています。

転機になったのは、長浜城主、及び北近江3郡の領主となった秀吉(当時・羽柴秀吉)に仕官したこと。成長著しい織田家中の出世頭の秀吉について、中国攻め(対毛利氏)にも且元は従軍していたと思われます。
※この時期の秀吉には、早急に自らの家臣団を形成する必要がありました。多くの人材をこの時期に募り、同じ近江国生まれの石田正澄・三成兄弟もまた秀吉の家臣となっています。

 

清正らとともに、賤ヶ岳の七本槍にも数えられた武功

天正11年(1583年)5月、信長死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍した且元は、賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられます。
この時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に3千石を与えられました。

天正12年(1584年)6月、小牧・長久手の戦いでは、陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として150人を率いて本陣を守るなどして活躍。※秀吉は家康に敗北

 

次第に行政官としての活動が主体となっていく且元

その後は前線で活躍することはなく、馬廻衆として後方支援などの活動が中心となり、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站(へいたん)に関わることが多くなります。
他にも、秀吉の支配領域の拡大に伴い、小堀正次、浅野長政、福島正則などと共に、検地奉行として活躍。基本的にはその他の近江派閥の武将たちと同じく、槍働きではなく、安定期に入る豊臣政権において、文官(検地や調達、地震後の復興事業など)としての仕事を多くこなしています。

 

家康と昵懇(じっこん)になる中で翻弄された豊臣への忠義

慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊しており、以後ふたりは連絡を取り続けていくことになりました。※且元、運命の分かれ道・・

この年の9 月の関ヶ原の戦いでは、石田三成方(西軍)に付くも東軍に敗北。

その後は、自らの長女を家康への人質に差し出すなどして改易を逃れ、豊臣と徳川両家の調整に奔走していくことになっていきます。

逆に家康から播磨 国と伊勢国の所領6千石と引替に、大和国竜田2万4千石を与えられて結果的には加増となっています。

 

家康の政治を幼い秀頼の代行として承認、協力する立場となる。

当初は全国の蔵入地を総監する立場から、徳川氏の所務方の大久保長安の検地などに協力。また寺社奉行として、豊臣公儀の政策だった畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組みます。

慶 長9年(1604年)の秀吉7回忌と同15年(1610年)の13回忌の大祭(臨時祭礼)では総奉行。また朝廷との橋渡しを務めた他、慶長14年 (1609年)の猪熊事件では、京都所司代の板倉勝重に協力するなどしました。

慶長 10年(1605年)頃からは、家康から豊臣家直轄地の国奉行のような立場に任じられた他、家康在所の伏見城内において全般的な実務にも当たっています。

慶長16年(1611年)、駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛し、要望されていた秀頼との二条城会見に、且元も随行しました。

 

そして、方広寺鐘銘事件

「国家安康」「君臣豊楽」

「国家安康」は家康を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められていると家康側が豊臣家に対していいがかりをつけます。この、いわゆる方広寺鐘銘事件がおこると、且元はこの対応に1カ月あまりにわたって奔走。

金地院崇伝(家康のブレイン的存在)と本多正純を中心に調査が行われ、且元は大野治長・文英清韓(銘文を起草した人物)とともに駿府へ派遣されますが、清韓は駿府奉行に囚えられてしまいます。

銘文に対して崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺及びその下位に属する京都五山の7人の僧侶に検証が命じられ、清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬であるとみなされ、更に林羅山より呪詛などと批難されるのでした。

且元は、崇伝らへの弁明に務めますが、肝心の家康との会見は叶わないまま時が過ぎます。

ところが、別の日に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われてしまいます。

且元は、崇伝から「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」と 伝えられ帰坂。

 

そこで、

・秀頼の駿府と江戸への参勤

・淀殿を江戸詰め(人質)とする

・秀頼が大坂城を出て他国に移 る

上記の提案の中からひとつを選択するように伝えます。

 

しかし、大野治房や渡辺糺といった淀殿の側近たちから家康との内通を疑われるようになり、織田信雄から薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされ、且元は屋敷に篭り守りを堅めます。
秀頼や木村重成からこれを調停する動きがあったものの、28日に高野山に入るとして城を出ることを決め、秀頼側からも不忠者であることを理由に改易が決定。

そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎを済ませると、10月1日に300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去しました。

且元は貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請。

この日は、既に勝重から且元の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康による、徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもあります。

 

片桐且元は、ただ人の良いだけの人物だったのか?

大坂の陣前の且元は、豊臣方の徳川家への折衷役の中心人物として活躍していますが、残念ながら思いは適わず、豊臣より改易されてしまいます。少し地味な印象の戦国武将ですが、その行動は当時の情勢をきちんと把握できており、家康からの信頼が厚かったことからも、決して無能な人材でなかったと言えるでしょう。

ある種、ヒステリーに展開していたと想像される大坂城内の意見・行動に関して、悔しい想いをしていたに違いありません。

結局、大坂の陣では家康に人質を送って従属。家康が二条城に到着すると軍議に加わり、先鋒を命じられます。そして、家康の砲術方の数十人を率いて、備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃も行ったと言われる且元。この戦果は、女性中心の大坂方を恐怖に落とし入れ、講和の席につか せる一つの契機となるのでした。

夏の陣での大坂城落城後、大野治長が秀頼や淀殿の助命嘆願の依頼と共に且元に知らせにくると、且元はこれを秀忠に通報。豊臣氏は助命叶わず滅亡。

皮肉にも後且元は、大坂夏の陣から20日ほどした5月28日に京屋敷にて60歳でこの世を去るのでした。

且元の跡は嫡男の孝利が跡を継いだが、竜田藩1万石はその甥で4代片桐為次が早世したことで明暦元年(1655年)に無嗣断絶。こうして且元の系統は絶え ることとなりました。(※大和小泉藩1万1千石の藩主となった弟・片桐貞隆の家系は明治まで大名として存続しています。)

 

大河・真田丸では?

密室で起きる人間関係を描くことは、まさに三谷脚本の真骨頂と言えるはず。現在、第14回「大坂」が終了したばかりの時点ですが、大坂城内の「わちゃわちゃ」した感じもほどよくにじみ出ているなど、今から後半の山場へ向けて伏線がしっかりはられているといったところです。大坂方と家康の間に挟まれて右往左往する片桐且元。一般的に地味なだけの印象のこの武将がどのように料理されるか?期待したいと思います。

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