大野治長(はるなが)

豊臣家を滅亡に招いた張本人。無能の人か?大野治長。

知行は僅か15,000石。さして経験もなかった治長が大坂の陣ではリーダーとして豊臣方を統率しました。結果は皆さん周知の通り、後世、茶々(淀君)とともに豊臣家を滅亡に導いた張本人として、残念ながらもたいへん評価の低い人物です。

果たして大野治長が無能だったから大坂の陣で豊臣側は敗北してしまったのでしょうか。
主家のため一生懸命働いたというのは間違いのない事実ですが、これが結果を伴うものでなかったこともまた事実。
歴史を勝者側からの一方的な視点や、単純な結果論だけで語るのはたいへん危険なことは承知のうえ(私の好まざるところ)ですが、果たして治長は無能か否か?

答えは「Yes」 なのです。

 

治長を高く評価した家康

実は、豊臣家と反目する立場の当の家康は、治長を高く評価していたとする記録が残されています。

家康曰く。「修理(治長)若輩と思ひしに、大坂籠城の張本人にまかりなり、弓矢取り候段、武勇の儀申すに及ばず。秀頼へお忠節、はた浅からず。」

これは冬の陣の和議成立後(家康にすればしてやったりな状況の中で)に、わざわざ目前の治長に対してかけた言葉と伝わっています。
家康は、愚策とも言える籠城戦を主張した治長を褒め、その後家康に対しても和議を求めるなど、豊臣撲滅戦にリーチの一手をかける手助け(結果として)をした治長を逆説的に讃えたのではないでしょうか?

家康にとって治長が発言権を持ったリーダーとして存在することは、まさに好都合であったはずです。

 

徳川家康暗殺疑惑事件

実はこの家康の発言の15年前には、こんなことも起こっています。
時は慶長4年(1599年)9月9日、徳川家康暗殺疑惑事件

徳川家康が大坂城に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んでいると、増田・長束両奉行より密告があったとした事件。

10月2日には

浅野長政を隠居させたうえ、徳川領の武蔵府中で蟄居。

雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放。

大野治長は下総国の結城秀康のもとへ追放。

さらに前田利長にいたっては、家康は加賀征伐を行うと脅すことで、利長の生母・芳春院を江戸に人質として差し出させています。

こうして家康支配下に完全に屈服した4人は、この後の関ケ原の合戦で東軍(家康方)に与して戦うことになるのですが、この事件自体、家康と本多正信が画策した謀略と言われ、治長始めとする4人からすれば全くの事実無根。完全なる冤罪だったわけです。

 

この同じ年の3月3日には、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きています。

この際、三成は佐竹義宣の協力もありなんとか大坂を脱出。意外にも伏見城内に逃れた三成は家康の仲裁を受け、佐和山城に蟄居することになり失脚。家康は三成を殺害するのではなく、むしろ生存させることによって、豊臣家家臣同士の対立を継続させることに成功しています。

この2つの事件が起きた慶長4年(1599年)は秀吉の死の翌年のことであり、邪魔な存在の大名を排斥する力を家康は手中にしつつありました。家康が天下奪取への目論見を周囲にもみせつつあったのです。

 

大坂城内で権勢を振るった大野親子と茶々

大野治長の実母は大蔵卿局。茶々の乳母を務めた人物で、片桐且元が大坂城を去った後は、治長・茶々とともに城内で権勢を振るうことになります。
(※慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件では、この大蔵卿局が家康の元へ使者として派遣されており、その際に、家康は彼女には面会し、従前から交渉に当たっていた片桐且元とは面会せず、豊臣方に揺さぶりをかけることに成功しています。結果として且元は大坂城から退去。この際、一部の武将も豊臣家を見限っています。)
その後、豊臣家内部では主戦論が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣へと突き進んでいきます。

実母の存在から、大坂城内でのポジションを獲得したとも言える治長。さらに、幼少より付き従ってきた茶々の主張を無碍に打ち捨てることができるはずもなかったであろうと思われ、籠城戦を主張しながらも、冬の陣の初めには、家康との早期和睦を考えたという矛盾する方針が浮き彫りとなるばかりで、治長から有能なリーダーとしての資質を見出せる余地はないと言えるのではないでしょうか。

 

大野修理(治長)沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣、将軍秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがか なわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害。

「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」「春日社司祐範記」に賞賛の記述の見られる治長。

自らの切腹を条件に、秀頼母子の助命嘆願を行い、さらにそれが叶わないと知ると、秀頼らと共に自害の道を選んだ治長の忠義はたいへん深いものだったと言えます。

享年47歳。

厳しい戦国という時代を生き残り、ひたすらに我慢を重ねて天下取りへの弓を引き続けた徳川家康という巨人。そんな人物を前にして、大野治長は「無能」であったと言わざるを得ません。

しかし、その死後・現代に至るまで、豊臣滅亡の汚名を主君・秀頼にきせることなく、治長自らが「無能」のためと言われ続けていることは、ある種の責任をきちんと果たした彼の大きな仕事であったのかも知れません。

香川県高松市の宝林寺。治長が落ち延びたという言い伝えがあります。

 

併せてご覧下さい ●秀頼の父親は誰なのか

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