馬廻衆

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合戦時の花形・馬廻衆(うままわりしゅう)

並みいる大名が合戦に明け暮れていた戦国期には、武芸に秀でたものだけが集められたエリート集団。それがこの馬廻衆であったと言えます。

戦闘になると騎馬にまたがって主君の側に仕え、護衛や伝令、及び強力な騎馬兵力として用いられた、まさに親衛隊的な存在でした。

 

やがてその中から大身に取り立てられるものも

その活躍が有名なところでは、織田信長の馬廻衆があります。命を惜しまず戦いに参加できるとの理由から、次男・三男などを中心に編成、信長の側近として活躍しました。
その馬廻衆から部隊の指揮官に昇進し、やがて大名へと出世した戦国武将の中には、滝川一益、前田利家、佐々成政(さっさなりまさ)、塙直政(ばんなおまさ)などがいます。

 

秀吉に仕えた馬廻、黄母衣衆(きぼろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)

後に秀吉は、信長の馬廻が、黒母衣衆と赤母衣衆に分別されていたことに倣い、自らの馬廻を黄母衣衆(きぼろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)と呼びました。

秀吉の馬廻衆、特に黄母衣衆には、羽柴四天王と呼ばれた、宮田光次(三木城攻めで討ち死。軍師・竹中半兵衛をして、光次の死は「弓矢、昔に劣れり」と言わしめた武勇の人。)、戸田勝隆神子田正治尾藤知宣の他、青木一重、伊木遠雄、石尾治一、伊東長実、井上道勝、小野木公郷、郡宗保、津田信任、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村幸成、蜂須賀家政、服部一忠、速水守久、三好房一、森可政、分部光嘉、一柳直末や毛利勝信(子は毛利勝永で、大坂の陣では真田信繁とともに獅子奮迅の働きをする戦国武将です。)などが所属した記録があります。

こうして、秀吉が大出世を遂げる過程においては、決戦兵力として白兵戦もおこなったと考えられますが、やがて太平の世の中が訪れると有名無実化し、平時の護衛や事務の取次ぎなど、大名の側近としての吏僚的な職務を果たすことが中心になったと考えられます。

 

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