大政所(なか)

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天下人となった豊臣秀吉の実母

大政所(おおまんどころ)。天下人となった豊臣秀吉の実母で元の名は仲(なか)。他に、天瑞院とも呼ばれました。
子供は秀吉の他に、秀長、旭姫(秀吉とは異父兄)などがいて、彼女自身の姉妹には福島正則の母、従姉妹には加藤清正の母などがいます。

織田家の雑兵だったと言われる、木下弥右衛門のもとに嫁ぎ秀吉を生みましたが先立たれると、弥右衛門の同朋衆の竹阿弥(たけあみ)と再婚。ふたりの間に秀長、旭姫が誕生しました。

秀吉が出世して長浜城主となった後は正室の寧(北政所)らと共にに暮らし、秀吉は身近において大事にしたと言い、大政所と寧は実の親子のように仲が良かったとも伝わります。

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白に任官すると従一位に。これ以後、大政所と呼ばれるようになります。
※大政所(大北政所)は、関白職にある者の母親に対し、天皇によって贈られる尊称のことを言います。

 

やがて、息子・娘に先立たれる大政所

翌年の9月には、大政所の娘・旭姫を正室とした徳川家康が、一向に上洛の気配を見せないことに業を煮やした秀吉が、今度は大政所を人質として家康のもとに送ります。

家康は、関白の母子が共に人質として送られてきたとあって、ついに重い腰を上げることになります。
※家康が上洛し、秀吉に拝謁することは家臣となり臣従することを意味しました。

このころから、大政所は病気がちであったと言われ、一時は回復するも、天正19年(1591年)、息子・秀長が死去したことで気落ちもあったのか、自身も天正20年(1592年)7月、聚楽第で死去します。享年80歳。(※諸説あり)

この時、孫にあたる秀次が、秀吉を落胆させまいと報告を躊躇したので、かえって秀吉は大政所の死に目に間に合わなかったと言い、あまりの衝撃にその場で卒倒したと伝わっています。かつてないほどの出世を遂げた天下人も、次々と亡くなっていく身内に加え、最愛の母の死に至ってはすぐに受け入れられないほどのショックを受けたと考えられます。

大政所のエピソード

また当時、秀吉の宣伝的要素とするのに、事実を無視した物語が数多く作られましたが、大政所の逸話を伝えるエピソードとして、彼女が萩中納言という貴族の娘で、宮中に仕えたことがきっかけで、天皇の落胤として秀吉を尾張で生んだというものがあり、これを聞いた大政所は激怒したとも伝わっています。

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