与力(寄騎)

真田丸・重要語解説

与力(寄騎)とは戦国時代において、家臣団を統率する戦国大名が、家臣の家臣にあたる陪臣を自らに直接的に臣従させる一方で、直臣である有力武将(寄親)に附属させ、在地土豪の軍事力などを効率的に自らに服属、利用したシステムのことを言います。(大河ドラマ・真田丸の時代設定期。※実際のところはその時代や戦国期であっても、それぞれ戦国大名のとった方針によって意味は随分と変化します。)

 

徳川の与力となった真田

徳川家康という大身の大名の与力となった真田。それは、秀吉の家臣でありながら、加勢として家康に附属させられた組下の大名という立場になったことを意味します。

この時期、同じく信濃の豪族であった木曾義昌(真田丸・第7回に登場)も家康の与力に組み入れられましたが、天正18年(1590年)、秀吉によって命じられた徳川家康の関東移封に伴って、下総阿知戸1万石に移封となり、先祖伝来の木曽谷を退いています。
これにより、精神的にも経済的にも逼迫した文禄4年(1595年)、義昌は失意のまま他界しました。

この他にも、信濃の国衆は家康の与力に組み入れられており、諏訪頼忠が諏訪から上野惣社、保科正直は伊那高遠から下総多古、小笠原秀政には松本から下総古河へと、みな関東方面に転封となりました。そしてそれぞれ空いた知行地には、仙石秀久や、石川数正、毛利秀頼(桶狭間の戦いでも戦功をあげた、元・信長の赤母衣衆)などが入っています。※木曾谷は秀吉の直轄地になりました。

 

所領安堵された昌幸・信幸。そして信繁も大名格へ

同じ与力でも、所領安堵された真田家の待遇は、木曾家やその他の信濃国衆とは格段に違うものであったと言えます。これは、第1次上田合戦で発揮された昌幸の底力や、その後の信幸、信繁の政治活動が功を奏していたことを表しているのかもしれませんし、一説には、徳川家康に対する秀吉の備えとも考えられています(※事実こちらは関ケ原の合戦時、第2次上田合戦で立証されました。

また、後に小田原征伐の発端となる名胡桃城事件(天正17年、北条方が真田方の名胡桃城を奪取した事件)では、秀吉への上訴を信幸は家康を通しておこなっており、家康麾下の真田家が与力として機能した一例と言えます。

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