刀狩り

秀吉の刀狩り、没収された刀は大仏の材料に?

秀吉は、天下統一を目前に控えた1588年8月29日(天正16年)、刀狩令を制定しました。(※小田原征伐の前年)

その内容は以下のとおり

第1条 百姓が刀や脇差(わきざし)、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

とくに第2条に注目。没収された武器類は、方広寺大仏殿の材料とすることが、当時大きく喧伝されたと言います。

 

豊臣にとってはいわく付きの方広寺

この方広寺の大仏、東大寺の大仏よりさらに大きい約19mもあったと言いますが、完成の翌年の文禄5年(1596年)、7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊してしまいます。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したとも。秀吉の死後、息子の秀頼がこの大仏の復興を図りますが、慶長7年(1602年)には流し込んだ銅が漏れ出たたことで火災が起きてしまいます。

何よりも、慶長19年(1614年)の梵鐘(ぼんしょう)完成後の、「国家安康」「君臣豊楽」の句が、徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとされてしまい、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる発端に、この方広寺がなってしまいました。(方広寺鐘銘事件)

 

刀狩りの本質的な意味

一般的には農民の帯刀を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られているこの刀狩り。(教科書にもそのように書かれていたと思います)

実際のところ、その他の槍、弓矢、鉄砲などの武器は所持を許可されるなど、刀狩後も農村には大量の武器が存在したままで、完全な武装解除がされたわけではなかったようです。

刀狩りを実施する際、ほとんどの場合、武家側が村に乗り込むのではなく、村任せで実行されたケースが多いとも言い、思ったよりも緩やかなイメージですね。日本人には古来、刀は神聖なものという意識もあったので、刀を差すことは単純な武器としての所有のほか特別な意味もあったということです。実際、合戦・紛争になった際も刀を使用しての白兵戦などはほとんどなかったと言い、主力は槍、弓矢、鉄砲であったわけですから、何よりも刀狩りの目的が、武士は武士、農民は農民。身分の区別をはっきり分けたいという意図があったのではないでしょうか。

秀吉の刀狩令は、百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力です。

もとは百姓の身分(※諸説あり)から、大身を成して天下人という頂点に上り詰めた秀吉。その人物が身分をしっかり区別するための制度を確立したとは、なんとも因縁のようなものを感じる出来事と言えるのではないでしょうか。

 

余談にはなりますが太平洋戦争直後、日本国民が所有していた刀の総数は約500万本と言われ、これが本当であれば、戦前には平均3軒に1軒は刀を所有していたことになります。何より、この膨大な武器を大きく削減したのはGHQの占領政策。完全な刀狩りを日本国民に対しておこなったのは、もしかするとアメリカなのかも知れません。

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