黄金の邸宅・聚楽第

竣工後わずか8年で取り壊された、伝説の城

※聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい、とも)
現在の京都府京都市上京区に秀吉が建てた政庁・邸宅・城郭のことを言います。建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓(やぐら)や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」などに描かれ、その姿は豪華絢爛そのものでした。1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成しています。

九州征伐後、豊臣秀吉は大坂城から聚楽第に移り、政務をみたと言われています。

天正少年使節や徳川家康の謁見などが行われたほか、後陽成天皇の行幸(※天皇の外出のこと)を迎えて饗応するなど、まさに豊臣政権の繁栄を体現するかのような存在であったと言えるでしょう。

 

近年の調査で判明した新たな事実

2015年10月~今年1月、京都大防災研究所と考古学専門家の共同研究チームが、土で埋められた堀の跡は地盤が弱い恐れがあり、防災と城郭研究の両面から聚楽第跡の人工的な地震波による調査をおこなっています。現在では住宅街となっている跡地に地震計を設置。その結果から、「聚楽第は単なる邸宅ではなく、本格的な城としての性格が強いことを裏付ける発見」と意義付けしています。

特にその外堀については、秀吉から聚楽第を譲られた秀次が、秀吉との緊張感が高まったことを受けて造った可能性があるとのこと。両者の対立を象徴するものではないか、とみられています。

 

聚楽第は秀吉から秀次へ

1591年(天正19年)秀吉が豊臣氏の氏長者・家督および関白職を甥である秀次に譲ると、聚楽第は秀次の邸宅となりました。翌、1592年(天正20年)1月には再度後陽成天皇の行幸を迎えており、これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されています。(※短期間に同じ場所に2度も行幸が行われた事例はほとんど存在しません。)

こうして、秀次は政庁でもある聚楽第にて政務を執りますが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、この頃までは秀吉が依然として統括的立場を保持。豊臣政権の二元政治化が起こったとも考えられます。

 

次第に壮大な力を得ることになる秀次

この年の3月26日、淀殿を伴って名護屋城に出征した秀吉が唐入りに専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構の整備が進んでいったと考えられています。秀吉が秀次へといったん譲ってしまった関白を中心とする国制機能は、秀次により独自に発動されることとなり、秀吉の権力の制御の枠をこえる動きを少しづつみせ始めます。前田利家、前田利政、佐竹義宣、里見義康、村井貞勝、真田昌幸らの官位授与・昇叙に対して、秀吉は秀次の同意を求め、その上で上奏するように指示しており、制度上の関白・秀次の地位が、結果として独自の権力を生む余地を生むことになりました。

12月8日には、元号が文禄に改元されますが、当時、天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなかったと考えられ、秀次への武家関白制の統治権の移譲に関係した改元でありました。

しかし、この直後、茶々(淀殿)の懐妊が判明。文禄2年(1593年)8月3日に、大坂城二の丸で秀頼(拾)を産むと、秀次の運命に暗雲が立ち込めます。

 

次第に悪化する秀吉と秀次の関係

秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見城にあり、自分が中間にいることで両派のバランスを取り持つつもりであったとされますが、伏見城が単なる隠居地から、城としての機能が強化されるにつれ、大名屋敷も多く築かれるようになり、次第に秀次を監視するようなかたちに変貌してしまいます。秀頼の誕生によって茶々(淀殿)とその側近の勢力が台頭したことが秀次には向かい風となり、この頃には大坂城の拡張工事などが実施されており、これは聚楽第に対して、大坂の武威を示す目的が指摘されています。

 

秀次は切腹、聚楽第は取り壊しに

やがて突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がります。

理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家。高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となりました。秀次の首は三条河原で晒し首とされたうえに、一族もことごとく処刑されました。

秀次の追放、切腹は1595年(文禄4年)7月。そして1カ月後の8月に聚楽第は取り壊し。徹底的に破壊されたと言います。

その後、新たに京都新城とが築城。後に北政所が居住したと言われています。

豪華絢爛。隆盛を極めながらも僅か8年で取り壊された聚楽第。豊臣一族の存亡を象徴するかのような大邸宅であったのかもしれません。

 

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