たか・隆清院(信繁の側室)

秀次の娘・たかは、信繁の3人目の妻

5月22日、真田丸の新たなキャストが発表になりました。配役は岸井ゆきさんで、秀次の娘・たか役。信繁の3人目の妻ということになるようです。新たな説などを積極的に使用して、今までにない大河ドラマを展開している感のある真田丸。この新しいキャスティングは、さらに新たな切り口を予感させると思います。

 

たかの父は、関白・豊臣秀次

関白になって僅か4年後の1595(文禄4)年、父・豊臣秀次は秀吉によって自害させられてしまいます。
この時、秀吉は豊臣内部での家督争いを防ぐために、秀次の一族すべての処刑を命じ、側室や侍女34人と、惨くも子供4男1女も京都三条河原で斬首。

ただ、この処刑から逃れることができたものもおり、それがこのたかと、たかの姉の2人だったと言います。たかには秀吉からの追っ手があったはずですが、なんとかこの危機を潜り抜け、「隆清院」と呼ばれるまでに成長します。

 

謎の多い、たか・隆清院

秀吉による秀次一族、皆殺しの命令の中で、なぜ、たか・隆清院は生き残ることができたのか? 
どのような経緯で、たか・隆清院は真田信繁の側室になったのか?

このあたりの経緯は、歴史的な資料もなくまったくの謎であると言います。当然、この関白秀次の娘が登場する大河ドラマなどはほぼ皆無と言え、このキャスティングは三谷脚本の大いなる挑戦ともとれるのです。

ちなみにですが「真田太平記」にも登場はありません。

 

信繁の母、薫・山之手殿の出自に関して

諸説ありながらも、信繁の母、薫・山之手殿は、公家の清華家菊亭晴季の娘とされています。

大河・真田丸でもおそらくこの説を採用していると思われるのですが、重要なのは、たか・隆清院の母も菊亭晴季の娘、一の台と言われていること。(※一の台は処刑。その父の菊亭晴季も秀次事件に連座して流罪。)つまり、信繁とたか・隆清院はいとこ同志という関係になるのです。

※注釈・・・摂家に次ぐ家柄である菊亭晴季の娘が、武田信玄の家臣でしかない真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)に嫁ぐことはあり得ないとも言われており、薫・山之手殿が菊亭家に出自を持つという説は疑問視もされています。他に、山之手殿は宇多頼忠の娘という説もあり、その場合は石田三成の妻も宇多頼忠の娘であることから、昌幸と三成は縁戚関係にあることになります。詳細は、こちらの投稿記事、薫(山之手殿)のページをご覧下さい。

 

信繁の大坂城入城に随伴、その後は祖母の元へ

真田信繁(幸村)の側室となり、大坂の役が始まる前に信繁と共に大坂城に入城することとなる、豊臣秀次の娘、たか・隆清院。

慶長19年(1614年)、信繁が大坂城に入城すると、隆清院もこれに随行。信繁との娘になる、田も連れてのことでした。

その年の11月には大阪冬の陣となりますが、その後の和睦によりいったんは事態が収束。しばらくの間は大坂城で過ごしましたが、翌年の1615(慶長20)年3月には大坂城を出て京都嵯峨野のとも・瑞龍院(隆清院の祖母。秀次の母です。秀吉からみると実姉にあたります。)を訪ねました。
とも・瑞龍院は既に出家しており。日秀尼と呼ばれていました。
そしてこの当時、たか・隆清院は2人目の子供になる、真田信繁の三男・幸信を身籠もっていたと言います。

 

そして大坂の陣・・・

同じ年の4月下旬には、大坂夏の陣。

5月7日、信繁が討ち死。
5月8日には、豊臣秀頼が大坂城で自害して、豊臣氏は滅亡しました。

大坂夏の陣が終わると徳川方による残党の捜索が行われ、身の危険を感じた、たか(隆清院)はとも(瑞龍院)とともに姉を頼って梅小路氏に身を隠し、娘のお田は町人の格好をして居場所を転々としたと言います。

お田は捕らえられて身柄を江戸へ送られましたが、その処分は人質として大奥勤めをするというもので比較的軽い処分に終わっています。
※これは伯父にあたる真田信之が幕府に掛け合ったためとも。)

一方のたか(隆清院)は姉の嫁ぎ先である梅小路氏に匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで幸信を産んで育てたと言います。
大奥に入ってから3年が過ぎた頃、お田は大奥を出ることを許され、無事、たか・隆清院と再会を果たすことが出来ました。

その後、お田は御田姫として、出羽亀田藩主・岩城宣隆(佐竹氏の一族)のもとに側室として嫁ぎます。
弟の真田幸信もその縁で岩城宣隆に引き取られ、元服すると家臣となり、その名を三好左馬之介幸信と名乗りました。

 

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