秀次の切腹に新説!

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従来の通説について

それまでは豊臣の後見者を目される立場であったにもかかわらず、秀吉から切腹を命じられ、やがて粛清されたとされる豊臣秀次。その理由としても、謀反説、石田三成讒言説、悪逆説・悪行説(殺生関白)、確執説など、様々なものがありはっきりしません。

秀次というと前述の殺生関白のイメージに加え、凡庸ないしは無能な人物というのが一般的です。しかし、秀次が本格的に統治を行った近江八幡では、町割など行政活動を積極的に行って発展させており、事実、地元では未だに尊敬されていることなど考慮すると、相応の力量を持ち合わせ、しかも文武両道の人物ではなかったか。という一面も浮かび上がってくるのです。(※同様の境遇であった、徳川2代将軍の秀忠と比較しても、遜色ないどころかむしろ上回っているとする評価もあります。)

歴史の常として「諸説ある」ということは、真実が何らかの理由で隠されている可能性を感じざるを得ません。そもそも、秀次の暴虐な行いに原因があるとされる説は、太田牛一の「太閤さま軍記のうち」を初出としており、当時の状況を考えると秀吉側の意図的な世論操作が行われたと考えるのが自然かと思います。※「太閤さま軍記のうち」は、同じ太田牛一の「信長公記」とは、性格の異なる伝記物と考えるべきでしょう。

 

国学院大准教授が「太閤記」に疑義、真田丸採用はこの新説か?

2013.11.17 20:54配信の産経WESTより記事抜粋

豊臣秀次切腹に新説…秀吉は命じず、身の潔白訴え自ら切腹か 国学院大准教授が「太閤記」に疑義

大変興味深い記事がありましたので、以下、抜粋しておきます。大河「真田丸」では、恐れることなく新説が採用されており、このことが今までにない「面白さ」を引き出していると考えます。秀次、切腹の原因としても今までない説が採用されるに違いなく、こちらはぜひ、熟読していただきたい学説になります。

 

豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥(おい)の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑 義を呈し、「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を打ち出した。秀次の死をめぐっては、その背景を明 確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明)

秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。

切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。

 

矢部准教授はこの日付について、「京都から高野山までは約130キロの距離がある。登り坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へあてた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたって は見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されていた。「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野 山に住まわせようと考えていたと思う」

また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7 月16日条には、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」 という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘。秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するた めに自らの決断で切腹したとみている。

秀次が腹を切った青巌寺は、秀吉が生母の菩提(ぼだい)寺として寄進した寺院だった。秀吉には神聖な場所を汚されたという思いがぬぐえず、秀次の切腹後、その妻子を苛烈に処刑したことも、この怒りに基づくものだと理解できるという。

 

太閤記にはフィクションの部分も多いとされ、新説を学術誌「国学院雑誌」の最新号に発表した矢部准教授は「太閤記の『秀次に謀反の動きがあった』という記述は、事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか」と推測している。

織田・豊臣期の京都を研究している大阪市立大の仁木宏教授の 話 「新説は日付のずれや史料の信憑性(しんぴょうせい)にこだわって導かれており、興味深い。ただ、根幹となる事実の解釈に恣意的(しいてき)な部分も あり、すぐに事実と認めることは難しい。議論を重ね、秀次の死と、その居宅だった聚楽第(じゅらくだい)破却の真相が解明されることを期待している」

元記事はこちら 2013.11.17 20:54配信・産経WEST

 

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