沼田領裁定

北関東の要衝でもある沼田城。軍事上の重要拠点として、上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となりました。武田氏の滅亡、そして本能寺の変後は真田信幸の支配城として、後北条氏とこの地を争うことになります。

※北条氏との争いに至る経緯の詳細は、下記をご覧下さい。

昌幸がこだわった沼田領、その攻略戦

本能寺の変後の天正壬午の乱、混乱の信濃・上野

沼田領問題勃発。昌幸vs家康、対決へ!

 

目次

北条氏は一触即発の臨戦態勢へ

天正14年に徳川家康が上洛。豊臣政権に従属すると、徳川と盟約関係にあった北条氏は同じ年の11月から臨戦態勢に入ります。真田昌幸が上洛したと考えられる翌年の天正15年、北条氏は小田原城を始め、領内各地の城郭の大改修を始めました。その間にも、豊臣秀吉は九州を平定。島津氏を降伏させると、九州全土の新たな国分を完了します。この後、必然の流れとして、関東(北条氏)と奥羽(伊達氏・最上氏など)の平定に向けての行動を開始することとなります。

秀吉は家康に、「関東・奥羽、惣無事の儀」を命令。豊臣政権に敵対する勢力に対する軍事発動権を与えます。これはつまり、家康が政権下の重要な柱石に位置付けられたことを意味し、さらには北条・徳川の同盟関係を形骸化させるための意図があったと考えられます。

 

秀吉は体制を盤石のものに、天下統一は目前へと迫ります

天正16年4月、秀吉は足利義満以来の天皇行幸を聚楽第にて実現。天皇の歴史的権威を背景に、天下を治める体制である関白政権を確固たるものとしました。この際、秀吉は諸大名に起請文を提出させて、関白への命令服従を約束させました。

しかし、この聚楽第行幸に際し上洛を促された北条氏政、氏直親子は応じず。遂に北条氏の秀吉への臣従は実現しませんでした。

 

裁定が北条氏の最期のチャンスに、しかし・・・

この後、秀吉は北条氏の上洛を実現するべく、北条・徳川・真田の三者間の懸案事項であった沼田領問題の解決に乗り出します。秀吉の提案する妥協案は、沼田領のうち3分の2は北条氏のものとし、名胡桃城を含む3分の1は真田氏のものとする裁定でした。なお、真田が失う分に相当する替地は家康が補償することを約束しています。

もちろん秀吉は、天正壬午の乱終結後の、徳川・北条による領土分割協定の内容は承知していたでしょう。しかし、家康が信濃佐久郡等を自力で奪取していたのに対して、北条氏は真田昌幸に敗れ、沼田・吾妻領を制圧できなかったことがそもそもの原因であると考えたうえの妥協案であったと言えます。

秀吉は北条氏がこの裁定を受諾し、当主・北条氏直が上洛すればただちに履行することを言明しています。しかし、この裁定に不満の残る北条氏は沼田全領の割譲を主張。これに怒った秀吉は使者を小田原に派遣して裁定の受諾を督促します。

ここまできて、北条氏は遂に屈服。氏直ではなく、北条氏政が出仕するとの一札を出すに至りました。

 

そして、名胡桃城事件の勃発

こうして沼田領問題は、遂に解決したかに見えますが、沼田領裁定が執行後のわずか3カ月後には「名胡桃城事件」が起こります。

事態は秀吉の大軍勢による小田原征伐に発展。早雲より始まった後北条氏は、遂に滅亡の日を迎えることになるのでした。

あわせてご覧下さい、小田原征伐~真田・名胡桃城が発端に~

 

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