名胡桃城主・鈴木重則(主水)

名胡桃城事件で切腹

鈴木主水(もんど)とも呼ばれる真田家臣。鈴木重則。

天正17年(1589年)に秀吉の裁定によって解決した沼田領問題
その際、真田領としての存続を認められた、名胡桃城の城主になります。

しかし、いったんは解決をみた沼田領問題でしたが、和議を反故にして謀略を仕掛けてきた北条家臣の猪俣邦憲によって、名胡桃城は奪われてしまいます。
重則は城を奪われた自分のふがいなさを恥じ、自害して果てました。(名胡桃城事件)
この事件を契機として、豊臣秀吉は小田原征伐へと動いて行くことになります。

 

武田家臣時代に昌幸の調略により臣従

名胡桃城は元々、沼田城の支城として沼田氏によって名胡桃館が築かれたのが最初とされています。
地理的には要衝であると言え、上杉氏、北条氏、武田氏など近隣の戦国武将達はこの地をめぐり攻防戦を繰り広げました。
真田家がまだ武田勝頼の家臣である時代、昌幸の働きによって、名胡桃城(城主・鈴木重則)を調略、その地を利用して沼田城を手に入れています。

昌幸の調略によって、武田の家臣(与力)となった名胡桃城主・鈴木重則は、武田家滅亡後も真田昌幸に臣従します。
以後、名胡桃城を含めた沼田領は何度も危機にさらされますが、真田によって継続的に統治されました。

 

剣術の達人、鈴木重則の子・鈴木忠重

重則には、幼名を小太郎と言う息子がいました。(鈴木忠重)

重則が自害したのは忠重6歳の時、母とともに北条氏に捕われることになります。しかし北条滅亡後、城から解放されると真田昌幸に引き取られその家臣となりました。

しかし、19歳の時には真田家を出奔、その際に柳生宗章と出会い弟子となり、柳生宗厳からも剣を学んだと言います。

そして、7年間漂泊の後に帰参しますが、関ヶ原の戦いの前後に再度出奔。その理由はよくわかっていません。

10数年後には真田家に再度帰参し、京の伏見真田屋敷留守居役を務めたと言います。そして、昌幸死後は沼田城主・真田信之の家臣となり、松代転封後には重臣に名を連ねました。主君・信之が参勤交代で江戸に向かった際には藩政を司るため松代城に残ったとされ、よほどの信頼を置かれていたと考えられます。

 

諜報活動した、忍びの可能性も

出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の陣)があったこと、また帰参後は重要なポジションについていることなどから、忠重を真田の諜報官(スパイ)であったとする説があります。

これについて証拠になるような史料が見当らないことで否定する向きもありますが、忍びとして暗躍していたならば、当然詳しい証拠となるような資料を残すはずもなく、鈴木忠重・忍者(諜報官)説は今後の研究にも期待したいところです。

ともあれ、忠重のような人物の存在が、後の真田十勇士のようなストーリーの下敷きになったことは間違いありません。

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