小田原征伐と真田家~信幸の忍城攻め~

天正17(1589)年11月10日、秀吉は北条氏の征討戦に向けて、諸大名に知行石高を基準にした軍役動員を示したと言われています。これによると、当時の真田家の兵力動員数は3000人と規定されたことになります。

徳川の与力という位置づけの真田でしたが、「案内者」として上杉景勝、前田利家、依田康国とともに北国衆に編成され、天正18年、3月上旬、上田城を出陣しました。

 

大道寺政繁の松井田城攻め

長男・信幸はこれよりも先に碓氷峠まで先行して在陣しており、やがて昌幸が合流。信幸は昌幸に命じて松井田城の偵察を命じたと言われています。信幸は、手勢の130人ほどを率いて進軍。これを迎撃に出陣した松井田城代・大道寺政繁と交戦に発展しました。

※解説・松井田城と大道寺政繁=松井田城の北側には碓氷道・東山道が通り、南側には中山道が通る交通の要衝に位置する極めて重要な山城。さらに碓氷峠に備える役割も担っていました。また、この城を守る大道寺政繁は、内政手腕に優れ、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと言われるだけでなく、軍事面においても「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた重臣です。

 

この戦いに関して、一説によると信幸は弟・信繁を率いて、大道寺軍と戦ったともいわれており(※諸説あり)、突撃をかけた信繁は相手方を撃破したとのこと。これに対し、北条方は、真田を始めとした「北国衆」の背後を錯乱しようという行動に出ますが、依田康国がこれにあたり迎撃に成功しています。

この後、上杉景勝、前田利家の軍が到着すると、碓氷峠を降りて松井田城を取り囲み、城下を占拠しました。こうして大道寺政繁は降伏。これを受けいれた北国衆は大道寺政繁を案内者とし、上野の北条方諸城攻撃に着手します。※この時、政繁らは討ち死にを覚悟していたと言われ、孫を脱出させますが、昌幸が見て見ぬふりをして見過ごしたと言われています。敵をとことんまで追い込まず、逃げ道を残しておいて最終的には見方につけるという昌幸らしい逸話ではないでしょうか。(※ただし小田原城陥落後、政繁は秀吉に切腹を命じられ絶命しています。)

 

のぼうの城と真田信幸

この後の真田を含めた北国衆の進軍は概ね順調に進みます。前橋城、箕輪城などの要衝は自滅し、途中、依田康国の討死という損害もあったものの、5月上旬には上野を制圧、次は武蔵・鉢形城へ向かい、名将・北条氏邦(軍事手腕に優れた氏政の弟)と対峙するも、あっさりと城を落とすことに成功しました。

そしてこの後、前田・上杉は八王子城攻めに、真田昌幸は浅野長吉(長政)とともに、あの忍城攻めに向かうことになります。この時、忍城城主・成田氏長はは小田原にいたため、叔父の成田泰季(やすすえ)が統括を務めていました。

最終的には、有名な石田三成の水攻めに発展していく忍城攻防戦、真田では、成田家臣・坂巻靱負(ゆきえ)という大剛の武者が守る出丸を攻めようと、止める昌幸の意見を聞かずに、手勢20騎ほどを連れて信幸が攻めかかったと言われています。信幸勢が出丸の木戸を破ると、思いのほか敵は少なく乗っ取りに成功したかに見えましたが、本城から弓・鉄砲の一斉射撃を受け家臣の何名かを失いました。※これは和田竜さんの小説「のぼうの城」でも扱われているエピソード。劇中、真田や信幸の名前は出来ませんが、映画版では赤備えの甲冑を身に着けた武者たちが坂巻靱負(※酒巻とも)と戦っており、暗に真田を表しているものと思われます。ともあれ、この出丸攻めに関しては、まさに真田のお株を取られたような負け方をした信幸でした。

その後の流れは、

7月5日、北条氏直が降伏の意思を表明

同6日、小田原城の接収が開始

そして、同10日、北条氏政・氏照兄弟が切腹

となっています。

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