宇都宮仕置

天正18(1590)年7月。小田原征伐を成功させ、天下統一を遂げた秀吉が関東および奥州の諸領主に対して行った戦後処理(奥州仕置とも)を言います。源頼朝が鎌倉幕府を樹立した際、宇都宮大明神に奉幣し奥州を平定したことに倣ったものとも言われます。※秀吉は頼朝を天下友達と称した言われ、小田原征伐の際には鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝。頼朝像を前にして、「あなたと私は、共に微小の身から立ち上がって天下を統一した、天下友達である。ただしあなたが源氏という名門の家に生まれたのに対し、私は農民というまさに何もないところから立ち上がって天下を取った。だから私の方があなたより上である」と言いました。秀吉はこの時期、頼朝を意識していたのかも知れません。

7月11日。小田原城が開城すると、17日に宇都宮国綱らと共に小田原から下野国に向かい、26日には宇都宮城に入城(※これにより、宇都宮氏は居城を要害地の多気城に移行)。関東・奥羽の大名達も次々に出頭し、ここで奥羽大名に対する仕置を行いました。

 

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仕置きの主だった内容

佐竹義重に対して、常陸ほか54万石の所領安堵。

しかし、前年に摺上原の戦いで蘆名氏を破り、奥羽に150万石近い大領国を築いていた伊達に関しては、政宗の小田原遅参に加え、会津攻めそのものが惣無事令に違反していたことから、会津などを没収され、陸奥出羽の13郡、約72万石に減封されています。またこの他、主だったところでは、自身の養子になっていた秀康(徳川家康の次男)に小山氏・壬生氏などの旧領を与えたうえ、結城氏の養嗣子にすることが正式に決められました。

 

詳細は下記

改易・・・石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠(家法・重綱)、黒川晴氏、田村宗顕、白河(結城)義親ら(小田原に参陣しなかったため)
減封・・・伊達政宗(奥羽約150万石から陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封。さらに翌年の再仕置で葛西大崎一揆の責任を問われ、約58万石に減封の上移封)
所領安堵・・・最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安ら(小田原に参陣したため、またはかねてから秀吉と親交があったため。ただし南部信直の津軽為信を謀反人とする訴えは却下)
新封・・・蒲生氏郷(豊臣氏の家臣。蘆名氏の旧領・会津黒川42万石を与えられ、さらに翌年の再仕置で約92万石に大加増)、木村吉清(豊臣氏の家臣。寺池城(登米城)を中心とした葛西大崎30万石を与えられるが、翌年に葛西大崎一揆の責任を問われ改易)

 

秀吉の天下統一の総仕上げ

秀吉は政宗の案内で、その没収した会津を新封となった蒲生氏郷、奉行だった浅野長政を筆頭とする奥州仕置軍を伴い巡察行軍を行いました。秀吉は途中で再び宇都宮に戻りますが、奥州仕置軍は政宗の案内により各地を制圧。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げました。秀吉の天下統一の総仕上げはここに完了したと言えます。

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