毛利勝永

牢人五人衆のうちのひとり、毛利勝永

大河「真田丸」では岡本健一さん演じる毛利勝永。(今回の大河では初のジャニーズ登場?)大坂城に入城した牢人(浪人)のうち、元大名、もしくは大名格のものを「大坂五人衆」と呼び、勝永はその中の一人にあたります。

※余談ですが、浪人(ろうにん)はもともと、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味しており、武士でなくても身分を問わず使われた言葉。対して牢人(ろうにん)は、主家を失うか去るかして俸禄を失った武士のことを言います。特に使われたのは戦国期で、いわば狭義の身分語でした。太平の江戸時代、中頃になって、牢人も浪人と呼ぶようになったそうです。

 

毛利(もうり)はもともとは森(もり)でした

父は森吉成(毛利勝信)で、早くから豊臣秀吉に仕えた古参の家臣。黄母衣七騎衆の1人です。(※馬廻衆、特にその中でも黄母衣衆ですし、真田丸の設定だと信繁とは同僚ということになります。)
天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐(平定)後、豊前・8郡の内、父・毛利勝信が2郡6万石を与えられて小倉の領主に。この際、その内の1万石(4万8,000石とも)が勝永に与えられ大名格となりました。※豊前・6郡12万石は黒田官兵衛(孝高)に与えられています。

そしてこの際、同じく秀吉の指示によって、森から毛利へと改姓したと言われていますがその理由は不明。(※一説には秀吉が箔を付ける為に改姓させたとも。翌年には毛利輝元の接待役となっています。この改正には、何か秀吉の企みがあったのかも知れません。)

 

関ケ原では西軍(石田方)に

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に参戦。その前哨戦と言われる伏見城の戦いで、勝永の指揮する軍勢は格別な戦功をあげます。この活躍で、毛利輝元・宇喜多秀家から感状と3,000石の加増を受けました。しかし、関ヶ原本戦時は輝元家臣とともに、安国寺恵瓊の指揮下に置かれて活躍の場なく終わってしまいます。(※また、本領の豊前では、天下簒奪を試みた黒田官兵衛(孝高)に小倉城を奪われています。)こうして、西軍に与した勝永は戦後改易となっています。

 

そして、大坂の陣へ

その後は身柄を父とともに加藤清正、次いで山内一豊に預けられます。特に旧知でもあり親交のあった山内家では1千石の封地をあてがわれ、父子ともに手厚く遇されたと言われますが、慶長19年(1614年)に豊臣秀頼から招きを受けると土佐からの脱出を計画しました。

勝永はこの際、徳川方に付いた藩主・山内忠義の陣中に行くと伝えながらも、子・勝家とともに大坂方に走ったと言います。山内忠義は激怒して勝家の見張り役に切腹を命じ、勝永の妻と次男などの子供たちは城内に軟禁されました。

※この時の有名エピソード・・・大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永。ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に 味方すれば、残ったお前たちに迷惑がかかるだろう」と涙を流して言います。これを聞いた妻、「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくし たちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ましたとか。戦前は教科書にも載っていた逸話らしく、現代人としてはなんとなく複雑な心境でしょうか。

ともかく、これを聞いた家康。「丈夫の志のある者は、みなかくの如しである。」と言い、勝永の妻と次男の太郎兵衛は罰せられることなく保護されたと言います。

大坂城に入城した毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称されます。
冬の陣では現在の今橋付近を守備。

夏の陣では、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を勝永が収容。その後、自軍の中から抽出した鉄砲隊を殿(しんがり)に残し、勝永自身は本隊を率いて大坂城方面に撤収します。

翌、天王寺口の戦いでは兵4,000を率いて家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣。戦闘が始まると、本多忠朝や小笠原秀政・忠脩父子を瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を撃破!
遂には家康の本陣に突入するという獅子奮迅の活躍を見せます。
しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。
退却においても勝永の指揮ぶりは際立っていたと言われ、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで城内へ撤収しました。

そしてその最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行い(※諸説あり)、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に切腹して果てたと言います。享年は37歳。

 

「列序を立てんに、古今独歩は真田信繁、第二の功は毛利勝永。」

上記、「独歩」の意味は卓越している。との意味で信繁の活躍を筆頭に挙げたうえで、勝永の活躍をその次と言っています。これは江戸時代中期の随筆・翁草のなかの言葉。

そして同じ書物には有名な、「惜しい哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」があり、意味は「惜しいかな、後世、真田を言って毛利を言わず。」

これは最大級にその活躍を賞賛された言葉と言えるでしょう。毛利勝永は文字通り、大坂の陣で真田信繁に負けるとも劣らない活躍をしたと、後世伝えられています。

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