NHK大河ドラマ「真田丸」ストーリー紹介
第25話「別離」
天正18(1590)年北条家が滅亡し、名実ともに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。その翌年、お捨は「鶴松」と名を改め、三歳を迎えます。しかし、病となり重篤な状態になってしまうのでした。
その鶴松がいる淀城は、古くからあった城を茶々の産所として修復したもの。この城には絶えず見舞い客が訪れ、ここぞとばかり、秀吉に取り入ろうとするものも多くいます。
馬廻衆である信繁と平野長泰は、三成から客の選別を任されますが、その際、鶴松の山がこの夜であるということを聞かされます。長泰は、利休の祟りではないか?と信繁に語るのでした。
この年の春、利休は不慮の死を遂げています。その死の前、信繁は三成、吉継とともに、聚楽第の茶室にいる利休を訪ねていました。信繁が小田原城の蔵から持ち出した鉛の件を問いただすためでした。
しかし、その鉛の刻印を見ても平然としている利休。
三人は、利休と同じく秀吉の信任が厚い、秀長を頼ることにします。病床にある秀長ですが、三成らの話にじっくりと耳を傾けるのでした。
夕暮れ、秀吉と秀長の兄弟は、広緑に並び腰かけて例の鉛の塊を見ています。
秀吉はもう若くはありません。秀吉が亡くなった後の鶴松を誰が支えていくのか?利休は力を持ち過ぎ、秀次は心もとなく、秀長はたいへん心配しているのでした。秀長が利休の処遇に関して、手筈進めるよう説得すると秀吉は静かに頷いたのでした。
それから間もなく、秀長は52歳でその生涯を閉じます。
淀城では鶴松が今もなお、病と闘っています。
その城の一室で大徳寺を訪れた日のことを思いだす三成。
三成と吉継は一計を案じ、大徳寺で扱いに困っていた利休をかたどった大きな木像を利用します。この木像を大徳寺の山門に飾らせるというものでした。
秀吉も鶴松の平癒祈願のため、大徳寺を訪れます。そして、山門をくぐる時、自然と秀吉も利休の足元をくぐることになります。それを秀吉に伝える三成。こうして秀吉の胸に、利休への不信感が芽生えます。
三成の計らいで利休は堺にて蟄居の身となり、その半年後には切腹と言い渡されます。
堺の屋敷。利休の見張り役を命じられた信繁。
何故、あのような木像を作らせたのか不思議に思う信繁に対して、運命であるとひとことで語る利休。語った後、意味深長に笑うのみでした。
鶴松の病状が悪化していることは、昌幸の耳に入ります。この時、昌幸と薫は京に屋敷を構えており、上田との間を行き来する生活を送っていました。淀城へ鶴松の見舞いに昌幸も参上。信繁がそこへ顔を出すと昌幸は、鶴松がもし死ぬようなことがあれば、今後の天下の筋書きが再び変わる。面白くなってきた。と語ります。
淀城の広間で信繁と長泰が見舞い客に備えていると、秀次ときりがそこへ現れます。秀次は鶴松の見舞いに長泰に案内され、きりは鶴松の好きなでんでん太鼓を寧に頼まれ持ってきたということを信繁に伝えます。折よく寧がきて受け取っていくと、そこへ大蔵卿局がやってきて、鶴松の病が利休の祟りだという噂を耳にしたと言います。実は、利休が木像を作らせたのは茶々の頼みがあったからであり、たまたま間違いで寸法が大きすぎたものを、大徳寺に預けるように提案したのも茶々だったということでした。
話を聞いて、信繁の中で一連の出来事が繋がります。
鶴松の命が間もなく消えようとしているその頃、三成は豊臣一門に連なる五人の若者を集めていました。
三成はこれまで以上に秀吉を補佐して欲しいと秀次に申し入れ、他の4人にはその秀次を補佐して欲しいと一門の団結を図るのでした。
その夜、夜空を見上げる秀次ときり。後継ぎの自覚もでてきた秀次。きりに自分を支えて欲しいと伝える秀次に、きりは返事をいったん保留します。
夜遅く、鶴松の容態は急変。気を落とす秀吉を信繁は必死で励ましますが、鶴松は2年2カ月の短い一生を終えます。
茶々は寧の胸の中で、鶴松の死を嘆き、慟哭します。
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