豊臣秀吉、終焉の城・伏見城

東山から連なる丘陵の最南端に位置。南には巨椋池が広がり、水運によって大坂と京都とを結ぶ要衝の地である伏見の地に築かれた伏見城。三度に渡って築城されたというこの城はどんな経緯をもって築かれたのでしょうか?

 

豪華な様式の豊臣期・伏見城

朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月、秀吉が隠居後の住まいとするために建設を始めました。三度に渡って築城された伏見城。それぞれを区別するため、このとき築かれたものを指月伏見城と呼んでいます。

秀吉は文禄の役で名護屋城在陣中、伏見城を利休好みの趣向で造らせるよう指示。建設が始まると工事は急ピッチで進められました。この際、聚楽第城下から多くの町民が移住したとも考えられ、現在も「聚楽町」などの地名が伏見地区に残っています。

当初の計画では、秀吉はあくまで隠居所として屋敷構にするつもりだったと言われていますが、結果的には豪壮華麗な城として築造しなおされています。1593年(文禄2年)9月ごろにはいったん完成しました。

 

秀頼(拾)の誕生と秀次の切腹

同じ年の8月3日。拾・豊臣秀頼が産まれ、大坂城を与えると想定したことで、隠居屋敷はさらに大規模な改修が行われることになります。

翌年の文禄3年(1594年)10月。宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き、城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築くとその上に街道を通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われました。まさに、「交通の要衝を管制する政治・軍事施設として築城された。本拠である大坂と朝廷に影響力を行使する聚楽第(※秀次が所在)の間に位置する城として、二元統制を行う秀吉に大変好都合な場所である」と言われ、この改修・増築をもって、当初の隠居屋敷は本城と意図を変えたと考えられています。(※この際の城普請には、真田父子も動員されていたことが、真田昌幸・信之・幸村宛豊臣氏普請奉行連署状という文書で伝えられています。)

そして、さらにその翌年の1595年(文禄4年)に秀次切腹事件が起きると、同年7月には破却された聚楽第からも建物が移築され、さらに強大堅牢な城へと姿を変貌させていきます。

 

伏見大地震

しかし、文禄5年(1596年)閏7月12月深夜から13日にかけて大規模な地震が起こります。(慶長伏見地震)

この時豊臣秀吉は伏見城におり、女﨟73名、中居500名が死亡しますが豊臣秀吉は無事でした。一晩をすごした後、夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、豊臣秀吉もそこで避難生活を送ったと言います。この地が後の木幡山伏見城となりました。

地震の2日後、7月15日には木幡山伏見城の作事が着手されたと言い、なんと本丸は10月10日には完成するという異例のスピードでした。

秀吉は大坂城と伏見城を行き来していましたが、晩年は伏見城で過ごすことが多くなり、慶長3年(1598年)8月18日伏見城で没しています。

 

伏見城の戦いと徳川家康

秀吉の死後、その遺言により秀頼は大坂城へと移ります。

そして、五大老の一人・前田利家が病死。三成襲撃事件の顛末として、家康が石田三成を佐和山城へ追放した後、留守居役として伏見城に入城しました。しかし、その徳川家康も同じ年には大坂城に移っており、これを機に他の大名屋敷も大坂に転居。伏見城の城下町はみるみるうちに廃れていったと言います。

家康が翌年の慶長5年(1600年)6月、会津征伐に動き出と、この間隙をぬって、石田三成は、毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵。

総大将を宇喜多秀家におき、副将・小早川秀秋、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継などが攻城側に参加し、総勢4万人の大軍で伏見城を攻めました・(伏見城の戦い) これに対して、守備軍は鳥居元忠を総大将とした、たったの1,800人のみでした。

兵力差から考えれば短時日で決着するはずの戦いでしたが、元忠とその兵達の奮戦で攻城側は苦戦を強いられたと言います。(※攻城側のチームワークの乱れも一因)

この状況を打開するため、攻城側は伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛。内通しなければ家族を磔にすると脅迫します。甲賀衆はこの脅迫に応じ、伏見城内に火をつけました。この裏切りによって支えきれなくなり伏見城はようやく落城。元忠は鈴木孫一(雑賀孫一)に首を刎ねられ討死しています。こうして、伏見城は秀吉時代の主要建築をすべて焼亡。結果的に本戦への前哨戦となったこの戦いで、本来なら数日で落とせたはずの伏見城に10日以上も期間をかけたことが、関ケ原の敗因に大きく影響したと考えられます。

その後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は伏見城と二条城の再建を開始。伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。

秀吉の死とともに、江戸幕府の開府という二つの出来事を経験したこの城は、大坂城とともに、豊臣終焉の城と呼ぶのに相応しいのかもしれません。

 

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