後藤又兵衛(基次)

黒田如水(官兵衛)、黒田長政親子に仕え、「黒田八虎」にも数えられた豪勇の戦国武将・後藤又兵衛。大河・真田丸では、哀川翔さんの配役が発表されました。黒田家を出奔して、牢人した後に、大坂の陣では豊臣方として入城。真田信繁の強力な盟友(ライバル)として、また最大の理解者として、大坂の陣での真田信繁を物語るときには、必要不可欠、絶対に欠かせない存在の人物です。

(※黒田八虎=又兵衛の他、福島正則と飲み比べをして勝ち、秀吉より拝領の名槍「日本号」を譲りうけた母里友信や、キリシタン武将・明石全登を匿った黒田直之、黒田家筆頭家老・栗山利安などがいます。)

信繁(幸村)と同じく、講談や軍記物語などでは英雄として描かれる又兵衛。「大坂城五人衆」の一人に数えられた又兵衛とは、いったいどんな人物なのでしょうか。

 

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黒田家の他、あの仙石秀久にも仕えた又兵衛。

永禄3年(1560年)に播磨の姫路近郊に生まれたといわれる又兵衛。(※真田丸に登場する人物では、石田三成、直江兼続と同い年になります。)父・後藤新左衛門(※諸説あり)は別所氏家臣でしたが、秀吉により滅亡。又兵衛は父とともに、小寺(黒田)家に付き従ったものと思われます。

しかし、天正6年(1578年)、黒田官兵衛(※当時は孝高)が、織田信長を裏切った荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父が拒否したため(※官兵衛を裏切ったとも)、一族追放となり、その後は仙石秀久に仕えています。

 

黒田家に復帰

しかし天正14年(1586年)、九州征伐の際、戸次川の戦いにおいて仙石秀久が自らの失策で島津家久に大敗。領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田官兵衛の重臣・栗山利安の与力として、黒田家に100石で復帰しました。

この後、黒田家が豊前・中津に領地替えで入封すると前領主の城井(きい)氏がゲリラ戦で抵抗、この戦いで又兵衛は雷火砲という最新武器を用いたと言われています。

文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵では、黒田長政に付き従って従軍すると、亀甲車(装甲車)を作って城壁を突き崩すなど派手な活躍を見せた他、加藤清正配下の森本一久(※加藤家三傑のひとり)らと一番乗りを競うなど数多くの武功や逸話を残しました。

そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い・大橋掃部を一騎討ちで破るなどの大手柄を挙げます。合戦後は、黒田家重臣の一人として認められ、大隈城(益富城)の城主となり、16,000石の所領を与えられたと言われています。(※諸説あり

 

黒田家出奔

官兵衛の死から2年経った慶長11年(1606年)、又兵衛は一族揃って黒田家を出奔。もともと、不仲であったと伝わる長政のもとを離れる決断をしました。当初は細川忠興を頼り士官しますが、これが原因で、元から関係がこじれていた細川家と黒田家が一触即発の事態となり、又兵衛は細川家を退去するはめになってしまいます。(※徳川家康の仲裁があったとも

もちろん武勇で馳せた又兵衛のもとには、福島正則・前田利長・結城秀康などの名だたる大名から召し出しのオファーがかかるわけですが、長政の差し金によりどれも実現しませんでした。仕方なく、生まれ故郷の播磨に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えたと言いますが、これも流れてしまい、最終的には京都で牢人生活を送ることになってしまいます。

これは長政により「奉公構」という、他家が召抱えないように釘を刺す回状が出されていたためで、武士にとっては切腹につぐ重刑であったと言えます。

 

又兵衛、大坂に入城、再び脚光の時。

慶長19年(1614年)、大坂の陣では、大野治長の誘いを受けて大坂城に入城。(※その他の牢人衆に先駆けてのものでした。)

天満の浦での閲兵式の指揮では、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称されます。

この際、徳川家康から「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」とある種の賛辞を受けただけでなく、実質、城内でも歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、大野治長・治房らを補佐。次の冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対しました。

 

そして、夏の陣。

翌年5月、大坂夏の陣。道明寺の戦いにおいては、迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率います。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が既に近くまで進出。中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど孤軍で奮戦します。

しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、又兵衛は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死しました。享年56歳でした。

真田幸村(信繁)と同じく大坂の陣で活躍した又兵衛。講談や軍記が日本各地に広まって読まれた後世には、かれも伝説となり、実は生き延びたという逸話が数多く存在します。

奈良県宇陀市には、隠遁生活の後に又兵衛が一生を終えたという伝説が残り、彼の屋敷跡と伝えられる場所には又兵衛桜(瀧桜)と呼ばれる桜の大木が残っています。

 

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