後藤又兵衛(基次)②~長政との逸話。こんなにある!不仲の理由!!~

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後藤又兵衛、黒田長政との逸話。こんなにある!不仲の理由!!

●前述の城井氏との争いでは、実は長政と又兵衛は敗戦しています。その際、一揆鎮圧軍を率いていた長政は頭を丸めて父・官兵衛に詫び、それに追従して家臣も頭を丸める中、基次は従わなかったのだとか。又兵衛は悪びれる様子もなく平然と「戦に勝敗はつきもの。負け戦の度に髷を落としていたら、生涯、毛が揃う事がないわい。」と言い放ったと言います。そんな又兵衛を官兵衛は不問に付したので、先に頭を丸めた長政は面目丸つぶれだったと言われています。

●文禄の役で長政が朝鮮軍の敵将と組み合って川中に落ちた際、又兵衛は傍に居たにもかかわらず加勢せず。「敵に討たれるようなら我が殿ではない。」とこれまた言い放ったあげく、悠然と見物を続けました。長政はどうにか敵将を討ち取りますが、この一件に長政が何とも思わなかったとは到底考えられません。

●又兵衛が、他の宿老たちと同格以上の待遇であるにも関わらず、黒田家からのギャラに不満を持っていた説。

● 慶長の役では長政の陣中に虎が出現し、馬を噛み殺して暴れまわるという事件が起きます。黒田家臣・菅正利が虎に斬りつけ、虎が正利に襲い掛かろうとしたと ころを、又兵衛がわざわざ間に割って入り斬り、今度は正利が我先にと虎の眉間に一撃を加えたと言います。このとき、一部始終を見ていた長政は、「一手の大将たる身に大事の役を持ちながら、畜生と勇を争うは不心得である」と二人を叱責したのだとか。

●又兵衛は、そのネームバリューのため交友関係が広く、そのせいで細川忠興との内通を疑われてしまいます。ちなみに前述のとおり、細川忠興と長政は犬猿の仲でした。

●その他、嫡男・後藤太郎助が、石垣原の戦いでも功名のあったにもかかわらず、黒田家から領外退去させられていたため。(※理由は女性問題とも)

●他にも、四男の後藤又一郎は小鼓の演奏に秀でていたことから、長政が能の伴奏を命じますが、これを「武士の務めにあらず」と又兵衛が怒ったため。

以上、こんなに存在します。どの説が正しいとかではなく、これだけ後世に語り継がれているわけですから、よほど仲が悪かったのだと考えて問題ないでしょう。 正直、どっちもどっちな気がしないでもなく、似た者同士な印象さえ浮かぶのですが、みなさんはどのようにお考えですか?

 

最後に、又兵衛の痛烈な長政の悪口談。

黒田家を出奔して又兵衛が細川家にいた頃、長政について聞かれた又兵衛は

明 日にも長政と一戦するという状況になれば何の謀り事も要りません。鉄砲隊50挺に申し付け、構わずに敵の先頭をやってくる槍前槍脇をとにかく撃ちなさい。 五人も撃ち倒せば、真っ先では無いかも知れませんが、二人目か三人目には、長政を討ち留める事でしょう。黒田長政という人は天性剛強な生まれつきで、どん な合戦でも先手に出、物脇の二人目か三人目にあって諸士と先を争う将であるので、この先陣争いの連中を御討ちなされば、そのまま安々と黒田長政を御討ちに なれる、ということなのです。

と言ったと記録されています。

後日、これを聞いた細川忠興とその家臣たちが、仲が悪くて辞めたのに、長政の武勇を語って又兵衛は偉い!と なったとの話がありますが、どう考えてもこの又兵衛の弁は長政の悪口にしか思えません。長政は又兵衛だけでなく、忠興とも仲が悪かったわけですから、大い にこの又兵衛の弁を喧伝したかったことでしょう。(美談ぽくみせて又兵衛もこう言ってると吹聴したかったのではないでしょうか。)

そんなこんなで、長政の逆鱗に触れ「奉公構」の発布につながったのかなと思います。

「奉公構」=他家が召抱えないように釘を刺す回状。武士にとっては切腹につぐ重刑であったと言えます。

 

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