信幸は伊豆守、信繁は左衛門佐。官位、従五位下に叙任!

天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐が成功し北条家が滅亡。東北の雄・伊達政宗も従えての宇都宮仕置、その後の奥羽仕置を済ませて、秀吉は名実ともに天下統一を果たします。

この時期に秀吉は、徳川秀忠、上杉景勝、小早川隆景、毛利輝元らをはじめとした外様大名と、その有力家臣(例えば、直江兼続など)に豊臣性と、官位を集中して与えました。このことは、公家の最高位である関白となった秀吉が、配下の身分秩序を体系化しながら、政権の基盤を盤石とする意図があったものと思われます。

 

信幸、信繁の従五位下叙任。そして婚儀など。

文禄3年(1594年)、11月2日、信幸と信繁は豊臣性を下賜(かし=身分の高い人からくださること)されるとともに、兄弟揃って従五位下に叙任されます。

真田信幸・・・伊豆守(いずのかみ

真田信繁・・・左衛門佐(さえもんのすけ)

上記のことから信幸と信繁は官位のうえでは、この時点で同格の扱いを受けていたことがわかります。そして信繁が大谷吉継の息女・春(竹林院)を妻として娶ったのもこの頃と考えられ、真田家は豊臣政権との結びつきを強固なものにしていきました。※よく言われることですが、信繁よりも少し前に本多忠勝の息女・稲(小松姫)を娶り、徳川家との結びつきを強めた信幸とは対照的な婚姻となりました。

そしてさらにこの同じ年、信繁は、昌幸、信幸とともに伏見城の普請を命じられており、これは官位を授かって初めての信繁の本格的な豊臣政権への奉公でした。このことはつまり、信繁が父や兄と同じくこの時期に大名格に出世を果たしていたことの証拠と言えます。(※あわせてご覧下さい。~豊臣政権下の真田信繁、大名だった?~

 

官位について

信繁がこの時与えられた「左衛門佐(さえもんのすけ)」という官位は、 左衛門府の次官。つまり宮内の諸門の警備などを務め、長官の左衛門督を補佐する役割をあらわしたものです。信繁の他にも、小早川秀秋などがこの官位に叙任されたことがありました。(※その他の官位の例=例えば石田三成の場合であれば、彼の官位の治部少輔(じぶのしょう)は治部省の次官をさし、役人の冠婚葬祭などを司った役職になります。長官である治部卿を補佐する役目のことをさしました。

また、信幸の「伊豆守(いずのかみ)」は、65個あるうちの「~守」パターンの中の官位のうちのひとつ。昌幸の安房守と同じく実際の領地と一致している呼び名ではなく、単なるハクづけでつけられたものと言って良いでしょう。そういった意味では信繁の左衛門佐も同じで、その官位に対する任務の内容はこの時代にはすでに形骸化していました。

こうして官位は実質的な意味がほとんど無くなっても(まったくの無意味という訳でもなさそうですが・・・)、官位自体は権威としての威力をいまだ有していたために、武士の序列を明確化する目的で使用されました。※同時に、それを発給する朝廷の機能存続と価値を後世に継続させることに役立ったとも考えられます。

 

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