「幻の城」伏見城

2016年07月25日 05時20分配信のYOMIURIONLINEより 元の記事はこちらをご覧下さい。

NHK大河ドラマ「真田丸」では豊臣秀吉がいよいよ晩年を迎えた。その後継を巡って豊臣政権が揺らぎ、関ヶ原の戦いを経て徳川政権が誕生した後まで、ドラマの主な舞台となったのが伏見城(京都市伏見区)だ。複数の顔を持つこの城では昨年、大きな発見もあった。 「上田城」 「真田丸」 「新府城、岩櫃城、岩殿城」 「沼田城」 「春日山城」 「大坂城」 「名胡桃城事件と北条攻め」 「“のぼうの城”と石垣山一夜城」 「小田原城」 「名護屋城と倭城」 に続き、萩原さんが解説する。

 

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秀吉が築いた伏見城とは

 大河ドラマで描かれたように、1596年(文禄5年)7月13日子の 刻、現在の京都市伏見区付近でマグニチュード8とも推定される「慶長伏見大地震」が発生しました。まるで豊臣政権の崩壊を予見するような大惨事。この慶長 伏見大地震により、完成間近だった秀吉の居城・伏見城も大破しました。

 伏見城というと、現在の伏見桃山城運動公園(京阪・伏見 桃山駅及び近鉄・桃山御陵前駅の北東に位置する)に立つ天守を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、その天守は慶長伏見大地震で倒壊した天守とは無関係 のもの。後世に建てられた建物で、外観も場所も史実と異なります。

 伏見城の歴史は、大きく4期に分かれます。豊臣秀吉による隠居屋敷(第1期、指月(しげつ)隠居屋敷)、秀吉が桃山丘陵南端部の伏見指月に築いた伏見城(第2期、指月伏見城)、慶長大地震後に北東約1キロの木幡山(こはたやま)に場所を移して築いた伏見城(第3期、豊臣期木幡山伏見城)、その伏見城が焼失後に徳川家康によって再建された伏見城(第4期、徳川期木幡山伏見城)です。慶長伏見大地震により倒壊した第2期伏見城は、その後再建された第3期・第4期伏見城とは違う場所にあったのです。

 秀吉が築いた伏見城とは、どんな城だったのでしょうか。変遷と実態に迫ってみましょう。

※指月は「しづき」と読むこともある

420年ぶりに出現した幻の城

  • 秀吉時代の伏見城に用いたと見られる金箔瓦(文化庁「発掘された日本列島2016」の展示より、読売新聞撮影)
    秀吉時代の伏見城に用いたと見られる金箔瓦(文化庁「発掘された日本列島2016」の展示より、読売新聞撮影)

 第2期の指月伏見城は、1592年(天正20年)に築城が開始されま した。地震による倒壊後すぐに埋められたため、これまでは所在すらわからず幻の城といわれてきましたが、2015年(平成27年)の集合住宅建設に伴う試 掘調査で、秀吉時代の遺構が出現。現地説明会に2300人あまりが訪れるほど大きな話題となりました。専門家も驚きを隠せない大発見で、豊臣家滅亡から ちょうど400年後の節目の年に見つかるという因縁めいた出来事でもあり、にぎわいました。

 調査により、長辺1メートル前後の花崗岩などによる、南 北36メートルにわたる石垣が出土しました。自然石をそのまま積み上げる野面積みに似た積み方は、秀吉が同時期に建造した初期の大坂城本丸や聚楽第と酷似 していることから、指月伏見城にほぼ間違いないと判断されています。

 金箔(きんぱく)桐文軒丸(のきまる)瓦や金箔唐草文軒平(のきひら)瓦 など、金箔瓦も数多く出土しました。このことからも、秀吉が築いた指月伏見城はかなり豪華だったと推定されます。一方で、長大な石垣の出土により、軍事面 も兼ね備えた政治色の濃い城だったとの見解も浮上しました。伏見城は隠居城といわれますが、実際にはかなりの政治的意欲をもって築かれた城だったようです。

秀吉が晩年を過ごした伏見城

 慶長伏見大地震の直後、指月から木幡山へ場所を変えて秀吉が築いたの が、第3期の伏見城(豊臣期木幡山伏見城)です。現在の、桃山御陵の一帯です。豊臣期木幡山伏見城は1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦の前哨戦となった 伏見城の戦いで壮絶な籠城戦の末に落城します。その後、徳川家康により第4期の伏見城(徳川期木幡山伏見城)が再建されました。伏見城は、初代・家康、2 代秀忠、3代家光が将軍宣下を受けるなど、徳川家にとっても特別な城となります。

 その後廃城となると、付近に桃の木が植えられ、この一帯は桃山 と呼ばれるようになりました。現在建っている天守が伏見桃山城と呼ばれるのは、このためです。1912年(明治45年)に明治天皇の伏見桃山陵、 1914(大正3)には昭憲皇太后の伏見桃山東陵が造営され、一般の立ち入りは禁止となっています。

 秀吉が晩年を過ごした木幡山伏見城もべールに包まれた謎の城でしたが、近年かつての姿が少しずつ明らかになりつつあります。大坂城の石垣と同じ石材質が認められた増田右衛門尉郭南東の石垣や、豊臣期大坂城と同じ構造の名護屋丸帯曲輪(くるわ)、見事に残る本丸と二の丸間の土橋とその側面にわずかに残存する石垣などが確認されています。本丸と二の丸間や二の丸の北側にある空堀は、さすがは天下人と(うな)らせられる巨大なものです。

各地に点在する伏見城の片りん

 伏見城の戦いで焼け残った建造物や材木は、さまざまな城や寺に運ばれました。伏見城は、栄華を極めた豊臣秀吉の居城。太閤秀吉の形見として、(あが)められるかのように各所で再利用されたようです。京都の国宝・三大唐門のひとつである西本願寺の唐門も、確証はないものの伏見城の城門を移したものといわれます。豊国神社の唐門も、もとは伏見城のものとされます。

全国の城に伏見(やぐら)と いう名称の櫓がよくあるのも、そのためです。なかには根拠が確認されていないものもありますが、それだけ伏見城は特別な存在だったということでしょう。福 山城(広島県福山市)の伏見櫓は、1622年(元和8年)に水野勝成が築城するにあたり、2代将軍徳川秀忠が第4期の木幡山伏見城の一部を移築させたとい われます。1954年(昭和29年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松の丸東やぐら」と発見されています。

 大河ドラマでは、ついに秀吉が最期の時を迎えます。豊臣家から政権奪取を狙う家康がいよいよ台頭し、真田一族にも大きな転機が迫ります。

2016年07月25日 05時20分配信のYOMIURIONLINEより 元の記事はこちらをご覧下さい。

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