2016年07月23日 東洋経済ONLINEから 元の記事はこちらをご覧下さい。
天下一統を果たして戦国時代を終わらせた豊臣秀吉の、晩年の汚点のひとつとされる《豊臣秀次切腹事件》。「愛息秀頼を後継者とするため、〈殺生関白〉の悪名高い甥の秀次に追放・切腹を命じ、その一族を大量処刑した」という通説は本当なのだろうか。
『関白秀次の切腹』を著し、大河ドラマ『真田丸』の秀次切腹のシーンに影響を与えた矢部健太郎・國學院大學教授が、「秀吉に秀次を殺すつもりはなかった」という新たな解釈を提示する。
歪められた秀次像
「豊臣秀次切腹事件」とは、文禄4年(1595)7月15日、高野山で起きた豊臣秀次の切腹とその妻子の集団処刑に至る騒動を指す。秀吉から譲られ て関白となった甥・秀次は、いわば豊臣政権の2代目であるが、「殺生関白」と呼ばれるほど暴虐な振る舞いが多く、息子・秀頼を後継者にしたい秀吉によって 高野山へ追放、切腹を命じられたという通説が一般的に受け入れられてきた。
そうした「豊臣秀次切腹事件」ならびに秀次本人に対する通説・評価は、江戸時代に成立した『甫庵太閤記』や『川角太閤記』などを根拠にしているものが多い。ただしそれらには、すでに徳川の世となっている時代背景からか、秀吉や秀次をことさらにおとしめる記述もみられる。
その代表といえるのが、いわゆる「殺生関白」であろう。秀次が生きていた同時代史料にそのような記述はないのに、慶長7~8年頃に著された『大かうさまくんきのうち』に突然現れ、暴虐な秀次というイメージを決定づけている。
また、秀次の没年齢について『甫庵太閤記』は28歳としているが、より信憑性が高いとみられる史料では32歳となっている。30歳前後の生涯において4歳の違いは非常に大きい。「秀次は未熟な若輩者」というイメージを植え付けようとした可能性も想定されるだろう。
では、実際の秀次は豊臣家にとって、どんな存在だったのか。
通説では「秀吉に切腹を命じられた」とされる秀次だが、豊臣政権の実状からすれば、絶対に殺してはならない人物だったと考えられる。以下の2点から説明しよう。
1、豊臣家の数少ない成人男子
秀吉の長男・鶴松や弟・秀長とその息子たちを失っていた豊臣家にとって、秀次は秀吉の後を継ぎ、まだ数え3歳の秀頼の将来を託せる唯一の成人男子だった。しかも、秀吉と違って子だくさんの秀次には男子もおり、一族不足の解消に、秀次の血筋は貴重だったことだろう。
2、「豊臣家第2代関白」という立場
天正19年(1591)、秀次は秀吉より関白の位を譲られた。
関白とは天皇の後見役ともいうべき官職であり、本来、「摂関家」と呼ばれる近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家のみが就くことができた。
秀吉は近衛家の猶子となって「藤原秀吉」として関白に任じられたが、直後の豊臣姓下賜により新たな「摂関家」として豊臣家を立ち上げることに成功し た。秀吉は、豊臣家が織田・徳川ら他の大名たちとは「格が違う」ことを明らかにしたのである。そして、関白の座を秀次へと継承することで、秀吉は豊臣政権 の永続性と正当性を担保しようとした。
つまり関白秀次とは、「これからも日本を治めていく豊臣家」の象徴的存在であった。その秀次を秀吉が殺したとすれば、それは己が築いた豊臣家と豊臣 政権の存続を危うくする愚行でしかない。それゆえに、この一件の説明には古くから「秀吉のもうろく」というキーワードが繰り返されてきた。しかし、政権の 実状に関する実証的な研究をふまえれば、「秀吉のもうろく」も秀次の「殺生関白」も、信頼すべき根拠のない作り話であったというべきだろう。秀吉の頭の中 に、秀次を殺すという選択肢が浮かんだとは想定しがたいのである。
秀次切腹、4つの新解釈
秀吉が秀次を殺すつもりではなかったのならば、秀次切腹事件はあらゆる局面の見直しを迫られることになる。以下に、事件の重要なポイントを4つ挙げ、考察を加えていきたい。
7月 3日 石田三成らが聚楽第にて秀次を詰問 …… ①
7月 8日 秀次が高野山に向かう …… ①
7月 12日 「秀次高野住山」令が出される …… ②
7月 13日 「秀次切腹命令」が出される …… ②
7月 15日 秀次が切腹 …… ③
8月 2日 秀次の一族を処刑 …… ④
① 秀次は高野山へ追放されたのか?
通説は「秀吉への謀反の嫌疑を詰問された秀次が高野山へ追放・切腹を命じられた」とし、秀次の謀反が高野山への追放と切腹の直接の原因としているが、秀次の謀反を証明する一次史料は見つかっていない。
その代わりにこの時期の重要な事件として「天脈拝診怠業事件」が挙げられる。これは、文禄4年6月20日、天皇の侍医・曲直瀬道三(玄朔)が天皇の診察より秀次の診察を優先した事件である。石田三成らの詰問はこの事件についてのものと考えられる。
この詰問の5日後の7月8日、秀次は高野山へ向かう。これは秀吉の命令ではなく、秀次の自発的な行動であった。その根拠は、種々の同時代の日記史料の記述である(いずれも筆者による現代語訳)。
「秀次は元結をお切りになった。高野山にお住まいになるため、ということを申してきた」(『兼見卿記』)
「秀次は伏見へ赴いたものの秀吉と義絶し、夕刻に遁世して高野山に向かった」(『言経卿記』)
「関白が高野山へ元結を切って御出奔なさった」「関白は逐電なされ」(『大外記中原師生母記』)
いずれも秀吉の命令=「追放」ではなく、秀次の自発的な行動=「出奔」として記録されている。同時代人は「秀次の意思による出奔」と認識していたの である。早くもこの2日後に、秀吉は「秀次を高野山へ遣わした」と述べてはいるけれども、それは事態の沈静化を狙った政権による後付けの説明だったのであ る。
②切腹命令の有無
秀次出奔後の7月12日と13日に、相次いで2つの文書が発せられている。ひとつは「秀次高野住山」令、もうひとつが「秀次切腹命令」である。
「秀次高野住山」令の主な内容は、
・秀次はじめ近侍の者が刀や脇差を持つことを禁じていること
・秀次が勝手に下山しないよう、また見舞いの者が来ないよう警備を固めるよう指示していること
に集約される。この文書を「秀次切腹までの環境維持」と見る向きもあるが、それは通説によるバイアスがかかった読み方と言わざるをえない。虚心坦懐 にこの文書と向き合えば、「ある程度の期間、秀次が高野山にとどまること」を秀吉が想定していたとの結論が導き出されるのが自然である。7月12日の時点 で、秀吉に秀次を切腹させる意思はなかった、むしろ秀次の自決を防ごうとさえしていたのだ。
そして、翌日の「秀次切腹命令」については、関白の切腹という重大な命令を伝える文書であるにもかかわらず、秀吉ではなく石田三成ら奉行衆の連名で 発せられている。また、「高野住山」令にはいくつかの写しが残され、秀吉や秀次存命時の文書であること、それが高野山頂に到着していたことが確認できるの に対し、「切腹命令」はそのような写しは確認されず、『甫庵太閤記』に記されているのみである。
この2つの文書の性格を簡単に記すと、前者は禁固刑、後者は死刑である。正反対の内容の命令が短期間で発せられたことは、単なる心変わりというには 不自然である。そして、双方の文書を検討すると、より高い信憑性を有しているのは明らかに前者であり、後者は江戸時代の創作と考えられるのである。
では、なぜみずから切腹したのか?
③秀次切腹の真意
では、なぜ秀次はみずから切腹したのか。禁中に仕える女性たちが記した輪番日記『御湯殿上日記』には、秀次切腹の翌7月16日条にこのように記している。
くわんはくとのきのふ十五日のよつ時に御はらきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり、
従来、この記述は「秀次は昨日15日の四つ時に、(本来なら打首獄門となるところ、)無実なので切腹させられた」と解釈されてきた。《名誉ある死》 といったところだろうか。しかし、のちに秀次の首がさらされたり、一族が大量処刑されていることを考えると、《名誉ある死》とはほど遠い。
この点について、「せ/られ」を〈使役〉で読むことは文法的に無理があるにもかかわらず、これも通説による思い込みで「切腹させられた」とのみ解釈 されてきた。しかし、当時の外国人が日本語を習得する際に使用した文法テキストによると、助動詞「せられ」には〈尊敬〉の意味もあったことが記されてい る。これに沿って現代語訳すると
関白秀次殿は昨日15日の四つ時に御腹をお切りになったということを(高野山が)申してきた。無実であるから(その証明のために)このようなことになった、ということである。
と読むことができるのである。
そもそも切腹には、〈させられる〉場合と〈みずから行う〉場合があった。前者は刑罰としての切腹だが、後者は強烈な自己主張、つまり「究極の請願」 という一面があった。主君をいさめるために家臣が切腹する「諌死」もこれにあたるだろう。秀次は、己の身の潔白を証明する「究極の請願」のために切腹した という解釈も、十分成り立つ余地があるのである。
④一族処刑の真相
秀次の切腹は、秀吉ならびに豊臣政権にとって想定外の事件であった。そのため、これ以後の秀吉・三成らは、事件への対応に苦慮することになる。主な対策は以下の2つである。
現職の関白の切腹という前代未聞の大事件から政権を守るために、豊臣政権は事件を「切腹して当然の謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた。事件を 「秀次の謀反」というストーリーで一貫させるために、福島らを加増し、秀次の関係者や一族を処罰したのである。これらは、従来の解釈では「当初の予定通 り」「怒りを抑えられない秀吉の愚行」と見られていたが、実際はそうではなかった。すべては、政権が後付けで秀次の罪状を吹聴した結果なのである。
政権に残った大きな傷
事件を通じて、豊臣政権は秀次の「出奔」を「追放」に、「無実の自害」を「切腹命令」に改ざんし、秀次を「天下の大罪人」とするためにその一族を殺 戮(さつりく)した。秀次の死から9カ月後、秀頼の初参内などのセレモニーによってようやく事件は終息したが、豊臣家と政権は大きなダメージに苦しむこと になる。
なかでも重大なのは、冒頭に記した、豊臣家と政権の次代を担うはずだった唯一の成人男子・秀次とその子どもたちを一挙に失ってしまったことだった。 豊臣家には老いた秀吉と幼い秀頼だけが残され、徳川家康に政権奪取のチャンスを与えることになる。秀頼の傅役・前田利家の死と関ヶ原合戦を経て、豊臣家は 大坂夏の陣で滅亡するのである。秀次の死から、わずか20年の出来事であった。
秀次切腹事件がなければ豊臣政権の方向性は大きく異なっていたであろうし、日本の歴史も違った道を歩んだ可能性もある。たった1人の人物の死がその後の歴史を大きく変えた、「豊臣秀次切腹事件」とは、それほどまでに重大な事件なのである。