バテレン追放令とサン・フェリペ号事件 ~二十六聖人殉教の悲劇~

バテレン追放令

秀吉は、もともと織田信長の政策を継承。キリスト教布教を容認する立場をとっていました。1586年(天正14年)3月には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを呼び引見、5月にはイエズス会に対して布教の許可証を発給しています。

しかしそんな秀吉が、バテレン追放令を出したのは同じ年の6月19日。同じくコエリョが長崎にて秀吉に謁見。一転して、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡し、キリスト教宣教の制限を表明しました。

秀吉が追放令を出した理由については諸説あり、

・キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
・神道・仏教への迫害を好まなかったため。(※有馬氏や大村氏などの大名単位で、領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊するなどといったことが行われました。
・ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。

などと言われています。

この後、秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収したものの、南蛮貿易のもたらす実利についても重視していたため、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行いませんでした。事実、禁令を受けたイエズス会宣教師たちはいったんは平戸に集結、やがて分散するなどして、公然とした布教活動については控えつつも、日本での行動を停止したわけではありませんでした。こうしていったんはグレーゾーン化した「キリスト教への信仰の自由」でしたが、サン・フェリペ号事件が起こったことで秀吉は態度を硬化、事態が急変していくことになります。

 

サン・フェリペ号事件

文禄5年(1596年)、東シナ海で複数の台風に襲われ、甚大な被害を受けた、スペインのガレオン船、サン・フェリペ号が土佐国に漂着します。この知らせを聞いた長宗我部元親の指示のもと、サン・フェリペ号を他の船で強引に移動させようとしたため、湾内の砂州に座礁してしまったといいます。このため、大量の船荷が流出し。船員たちは土佐国にそのまま留め置かれる事態になりました。

秀吉に会うことを許されないサン・フェリペ号の一行、代わりに増田長盛が派遣されてやって来ます。

長盛は、同伴していた黒人男女にいたるまで、船員全員の名簿を作成。積荷の一覧を作ってすべてに太閤の印を押しました。さらに船員たちは幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられました。長盛は「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げたとも言われています。

 

二十六聖人殉教の悲劇

長盛は秀吉の元に戻ると、1586年(天正14年)に続く禁教令が再び出されるに至ります。特に、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、さらに日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られると、慶長元年(1597年)12月19日処刑されました。

秀吉がそれまでのキリスト教徒への処遇から翻った処断を下したことは、処刑された外国人がフランシスコ会だけであったことから、京、大坂周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や、キリスト教内の宗派対立に嫌悪感を抱いたことが考えられます。

この頃までひとくくりにされてきた南蛮文化(ヨーロッパ世界感)とキリスト教が、実際にはスペイン人とポルトガル人とで異なるという明確な認識と、後の徳川期の鎖国のプロセスにおいて、先にスペイン船が渡航禁止(1624年)、次いでポルトガル船渡航禁止(1639年)というような状況に繋がっていきます。

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