木村重成(しげなり)

秀頼とは乳母兄弟の側近

父は関白・豊臣秀次の側近だったと伝わる木村重茲(しげこれ)。文禄4年(1595年)の秀次切腹事件の後、重茲やその長男や娘も処刑されますが、その当時、まだ3歳であった重成と、秀頼の乳母を務めていた重成の母は難を逃れることが出来ました。後、重成は秀頼の小姓として召し出され、母・宮内卿局とともに、秀頼・淀殿(茶々)の側近に仕えることになります。

秀頼の重成にたいする信頼はたいへん厚く、元服すると豊臣家の重臣となり、重要な会議などにも出席するようになります。慶長10年(1605年)、重成は従五位長門守(ながとのかみ)を叙任、3000石を与えられました。

 

主戦派として片桐且元を排斥、開戦へ

慶長19年(1614年)、徳川幕府と豊臣家の関係が悪化すると、まだ22歳と若く血気盛んな重成は主戦派のひとりとして開戦を叫び、穏健派の片桐且元を排斥する急先鋒となりました。

そして、大坂冬の陣が開戦すると、後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めることになりました。

 

今福の戦い

大坂城の北東、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村。当時、この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防の上のみ、まわりは田園という地形でした。豊臣方は今福村に三カ所の堀切と四重の柵を設置し、兵600で守備させていました。

しかし徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じ、佐竹義宣指揮下の兵1,500を送ります。

11月26日夜明け、佐竹勢が今福を攻撃を開始すると、豊臣方は第四柵まで占拠されます。この危機に豊臣方は木村重成が応援に駆け付け、反撃に転じると佐竹勢を押し戻し、その後膠着状態になったといいます。その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は後藤基次に救援を命じます。基次が駆けつけ、重成を支援しながら突撃を指揮。佐竹勢を押し戻しました。

木村重成の指示で、佐竹方の将・渋江政光(しぶえまさみつ)が第一柵で狙撃され討死。このため佐竹勢先鋒隊が潰走すると、佐竹義宣みずからも先頭に立って戦ったといい、さらに大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めます。それを受けた上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は自重して城内に撤退しました。

これが初陣であった木村重成。佐竹・上杉という戦国時代以来の古豪を相手に、見事な戦いぶりを披露したと言えます。(※この後、真田丸での戦いにも重成は参加しています。)

 

家康、重成をして「秀頼は良き家臣を持てり」

真田丸の戦いの後、徳川方と豊臣方は講和交渉を開始。重成は和平の誓書の交換のため、徳川家康の本陣が置かれた茶臼山に赴きます。

家康が誓書に押した血判を確認した重成。「御判の血が薄うござる。これでは相見えかねます。」と堂々した態度で言い放ったとか。

血判を捺しなおした家康は後になって、「秀頼は良き家臣を持てり」と嘆賞したと言います。

 

大坂夏の陣

休戦が束の間で終わりをつげた翌年の慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として、重成は長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣。

八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙します。(※八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾して昼食を取らせると、敵の来襲を待ち構えました。

この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたと言いますが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死しました。

当時、無双の美青年と謳われた重成。その姿は敵にも鮮やかに写り、「彼の武者を討ち取って、本日、第一の功名とせん。」井伊軍は重成を目指して殺到。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたがその功を重勝に譲ったともいわれています。

首実検でその首級が家康に届けられると頭髪に香が焚きこめてあったので、家康はその覚悟を褒めたたえたという逸話が残っています。

夏の陣が開戦する直前の1月7日。大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎えたばかりであった木村重成。重成の死後、妊娠していた青柳は近江の親族によってかくまわれて、男児出産後に出家したと伝えられています。青柳の出産した男児は馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられています。

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