仲良しだった?信幸と三成

豊臣政権において、近習として秀吉の側近くに仕えた信繁に対して、徳川家康の与力大名という立場であった兄・信幸。しかし、意外にも石田三成とは、たいへん親しく接していたらしく、「真田家文書」には14通もの三成から信幸に宛てた書状が残されていると言います。

しかも、これらすべては概して「短い手紙」であったらしく、このことがかえって二人の親密さをあらわしているのだとも。その内容には、「急ぎの要があれば糊で封をして送って欲しい」というものもあり、糊付けを必要とすること自体が隠密の用を伝える場合のみであることから(※後世、一般化する糊付けも戦国期にはイレギュラーなことだったようです。)、信幸と三成は密書をやり取りしていただろうと考えられています。

そしてこの14通の「真田家文書」、後に何故伝わったのかと言えば、信之(信幸)の松代藩が厳重に保管。常に番頭1人、武士5人を置いて昼夜警護のうえ守り続けたからなのです。

あくまで表向きは、二代藩主の真田信政に徳川家康から下賜された「藤四郎吉光」の短刀だと言い伝えて。

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成と敗者についた真田昌幸・信繫。松代藩にとっては、徳川幕府への忠誠を疑わせる危険な文書。これだけ大切にしていたことが、何よりも信幸と三成の友情をあらわしているのではないでしょうか。

時は明治になってもう開けても問題ないだろうと厳重な保管を解いた後年の真田家の人々。「藤四朗吉光」だけでなく多くの書状を目にして驚いただけでなく、藩祖・信之の律儀な人柄に想いを馳せたことでしょう。そしてその律儀さこそが、真田家存続の力になったと考えられます。

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