敵も味方も真っ赤っか!~真田丸、赤備えvs赤備えの戦い~

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戦闘の経緯

慶長19年10月2日(1614年11月3日)、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし、合戦準備に着手。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて全国から集めた総兵力は約10万人。年明けは、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら五人衆を中心に、対徳川方・「大坂冬の陣」の火ぶたが今まさに切って落とされたのです。

12月2日、布陣を終えた徳川方を驚かせたのが、大坂城から離れた場所にせり出した巨大な出城・「真田丸」でした。この不思議な存在感を放つ出城に対して、徳川方では当初、無理な力攻めをするなとの命を発していますが、真田丸に布陣する真田信繁隊(長宗我部盛親隊を含む5,000)に対峙した前田利常(前田利家4男)の軍勢20,000は、信繁の挑発にまんまと引っかかってしまう形で、数千人の損害を出す大敗北を喫しています。(※ことの顛末の詳細はこちらの記事をご覧下さい。数正息子・石川康勝のボヤ騒ぎ ~真田丸での大失策・災い転じて福となす~

そして、この前田利常に引きずられる形で戦闘に参加してしまったのが、八丁目口・谷町口に布陣した松平忠直(10,000)、井伊直孝(4,000)の軍勢でした。功を焦った松平・井伊の兵卒は、前田の軍勢と同じく真田丸に殺到。城方の反撃をまともにくらう中、撤退することも出来ずに大殺戮さながらの敗北と損害を被ります。

 

「赤備え」の系譜

赤備えを最初に率いた武将は、武田信玄に仕えた飯富虎昌。騎兵のみで編成された武田騎馬隊を「赤備え」で統一し戦場を駆け抜けたと言います。以後、赤備えは戦国最強軍団の代名詞として語り継がれていくこととなります。その後、永禄8年(1565年)に虎昌が義信事件に連座して切腹すると、部隊を山県昌景が引継いで赤備を継承しました。虎昌に負けず劣らずの戦国武者・昌景もたいへん武勇に秀でたため、武田騎馬軍団の価値は、この後もさらに高まっていきます。

しかし、勝頼の時代になって武田氏が滅亡すると、領国・甲斐は徳川家康のものとなります。その際、家康は武田遺臣を手厚く配下に組み入れたと言われ、特に「赤備え」を配備したのが井伊直政の部隊でした。武名でならした直政は、自分の部隊を赤備えとして再編成。こうして直政の部隊は「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられるほどに成長します。以後、幕末に至るまで井伊家の軍装は、足軽まで赤備えをもって基本とされたのでした。

そして、慶長20年(1615年)、敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、徳川家康に対して乾坤一擲(けんこんいってき=のるかそるかの大勝負をすること)の大合戦を敢行し、自らの武名を天下に示す事だったと言われています。そんな真田信繁(幸村)が編成した部隊もまた「赤備え」なのでした。信繁の父・昌幸は信玄の側に仕え「我が両眼の如し」とまで言われて信頼された人物。信繁もまた、自身で「赤備え」の継承者として名乗りを挙げたと言えます。

 

赤備えvs赤備えの戦い

真田信繁に対する「赤備え」を率いたのが井伊直孝(直政の次男)です。井伊家では直政の死後、家督は直孝の兄・直勝が継いでいましたが、直勝が家臣団をまとめ切れなかったことから、これを憂慮した家康により、直孝が家督を継ぐよう命じられます。こうして井伊家の嫡男でなかったにもかかわらず、直孝は彦根藩15万石を継承(※直勝には上野安中藩3万石)。井伊の「赤備え」は直孝に配属されることになりました。

こうして前述の真田丸での戦いでは、偶然にも「赤備えvs赤備えの戦い」が実現。結果は、まだ若輩であった直孝が信繁の挑発に乗って、策にはまってしまったことで、500人の死者を出す大敗北となりました。この戦いの後、先走って突撃したことを軍令違反と咎められた直孝ですが、家康の「味方を奮い立たせた」との言葉によって処罰は逃れたとも。

そして大坂夏の陣。先鋒を務めた直孝は、木村重成と長宗我部盛親を八尾・若江の戦いで打ち破って、冬の陣での雪辱を遂げました。この後、淀殿・豊臣秀頼母子を包囲して自害に追い込んだのも直孝と言われています。

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