信繁の九度山ライフ③~サナール紐と真田紐!~

昌幸・信繁の情報収集にも役立った?真田紐

九度山に蟄居していた真田昌幸・信繁父子が真田紐を考案し、生計を立てたという有名な俗説。真田の国元である上田付近は織物の産地であり、同じく九度山も織物の産地であったことからこのような逸話が誕生したと考えられています。そして、昌幸・信繁父子はこの真田紐の販売を全国展開。行商人(忍者)を使って売る歩くことで自らの収入源としただけでなく、同時に各国の大名の動向や情勢など、情報まで収集したという「おまけ」までついたエピソードとなっています。

 

その発祥について、実は諸説あり

現代においても流通している真田紐(※ふつうに楽天やamazonでも買えます。)。その発祥には他にも様々な説があり、さかのぼること鎌倉時代、現在のネパールなどで作られていた獣毛を使った織物である「サナール」が、インド更紗などの交易品を縛る目的で使用され、海路日本に伝来したのではないかと言うものもあります。(※サナール=サナダ、こうなると真田は関係ありませんね。)また、その他に「さのはた(狭織)」と呼ばれていた組紐が「さなだ」に転化したという説など。

ともあれ、真田家が蟄居させられていた九度山では、当時すでに大規模に織物が生産、工業化もされていたことから、昌幸・信繁父子による、いわゆる真田紐の生産は可能であったと考えられます。情勢が徳川に流れていく中、大阪を中心とした地方の庶民には親豊臣・反徳川的風潮が依然として根強く、最後まで徳川に苦汁をなめさせた真田を支持・美化する動きがあり、その一つの象徴として真田紐が存在した(真田紐という名で呼ばれるようになった)と言えるのかもしれません。

 

戦国期の必需品として人気となった真田紐

紐というには巾広の真田紐は、最狭のものでは6mm程度ですからおそらく世界で一番狭い織物と言うことができます。いわば織物を紐として使用するのですから、その美しさだけでなく頑強であることも魅力のひとつと考えて間違いはありません。戦国時代には、それまでのルールにのっとった武士同士の戦いではなく、今日の白兵戦やゲリラ戦の様な戦いに重きが置かれることになります(※まさに昌幸・信繁父子の真骨頂ですね)。後ろから突然襲われたり木々の中から狙われたり、そうした時、それまでの大鎧などの甲冑ですと、見てのとおり動きにくい部品がありますので、もはや行動的とは言えず不利な戦いを強いられることになります。やがて、より実践的に戦える軍事物資が重宝されるようになり、農民達や商人が荷紐に使っていた真田紐も合戦という場面に登場するようになりました。具体的には、真田紐を籠手(こて)や臑当(すねあて)に縛りつけて体に密着させ動き易くしたり、籠手や前垂れのふちに真田紐をぐるりと縫い付け、そのまま補強したりと活用されました。こうして、動きやすい小型化された当世具足が主流となる中、甲冑を付けられない下級武士や農民たちも、金属を縫い付けた真田紐を頭に巻き付けてかんたんな防具として使用するなど、真田紐は幅広く戦国大名の必需品となっていったと考えられます。

 

昌幸、信繁、自らも真田紐を利用して戦場へ向かった!

真田昌幸所用の甲冑は、胴を肩から吊るす紐には伸縮性のある組紐を使い上下動の衝撃を吸収、体の各部は伸びの少ない丈夫な真田紐を巻くことによって動きやすくするといった細かな使い分けがされていると言います。真田紐自体を考案、発明したのが真田昌幸・信繁父子かどうかは定かではありませんが、彼らがこの紐を最大限生かして使用したというのは、間違いない事実と言えるのではないでしょうか。

丈夫というだけでなく、無数の種類の柄をデザインし作ることの出来る真田紐。一部は家紋の様に家・個人の決められた柄があって、現代では骨董品の真贋鑑定の助けにもなっています。この紐がこうして現代にも「真田紐」という名称で存在している事実。これは、昌幸と信繁が、本当に良いものを見る目をきちんと持ち、また彼ら自身も本物であったというあらわれなのではないでしょうか。

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