文英清韓 ~問題の「国家安康」を書いた人物~

伊勢国の出身と言われる臨済宗の僧、文英清韓(ぶんえいせいかん)。一般に諱(いみな)の清韓のみで呼ばれることの多い人物です。秀吉時代の朝鮮出兵・文禄の役では加藤清正に従って朝鮮半島に渡ったとされ、現地で祐筆(※同地での清正の活躍などを記録)として活躍しました。

帰国後は、京都五山のひとつにも数えられる大本山・東福寺、さらに京都五山の上におかれる、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ別格扱いの寺院、大本山・南禅寺に席を移しています。

 

片桐且元に請われ、方広寺へ銘文を起草

漢詩文に秀でた清韓は、慶長19年(1614年)4月、片桐且元に請われて京都方広寺の再建工事において、梵鐘(はんしょう)の銘文(めいぶん)を起草。

この銘文に不吉な語句があると、徳川家康は問題視し、大仏開眼供養の中止を求めました。(※方広寺鐘銘事件)。

この年の8月には、且元に同行して家康のいる駿府へ弁明に向かったとされる清韓。この際、清韓は「国家安康」の記文について、家康の諱(いみな)を祝う意味で、意図的に銘文に入れたことを家康に陳述します。(※「かくし題」とした意識的な撰文である=「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明したとの記録。

しかしこの場において、その他の五山の僧は、この清韓の考えについては諱(いみな)の扱いに対する常識や礼儀としてこれを問題視するだけでなく、非難もされています。

結果的にこの事件は、梵鐘(はんしょう)の銘文(めいぶん)の問題から徳川家と豊臣家との対立に発展するにいたり、大坂の陣の遠因となりました。(※この事件について、豊臣家攻撃の口実とするための家康の言いがかりとされてきましたが、近年の研究では問題となって然るべきものと考えられています※詳しくはこちら 方広寺鐘銘事件の真実~家康の言いがかりではなかった!?~

この後、南禅寺から追放処分にあった清韓。大坂の陣には、自身も大坂城に入城しています。

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