織田有楽斎(長益)

目次

覇王・織田信長の弟、栄華の時

信長とは年齢が13歳離れた弟にあたる織田有楽斎。信長の存命時には長男・織田信忠の旗下にあり、信長が武田軍と対峙した甲州征伐などに従軍ました。

天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、信長の息子たち、信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続いたとされ、信長御一門衆のひとりとして栄華を飾ったと思われます。(「信長公記」)

しかし、その翌年、本能寺の変が起きたことでその運命は急変。有楽斎(長益)も激動の時代を過ごすことになります。

 

経歴を生かし、変化する時勢を上手く乗りこなす

本能寺の変では、信長嫡男・信忠とともに二条御所にいた有楽斎(長益)。信忠がこれまでと潔く切腹して自刃する中、自身は城を脱出。近江の安土を経由して岐阜へ逃れたとされています。

その後、信忠の弟・信雄(のぶかつ)に仕えて検地奉行などを務めました。徳川家康と羽柴秀吉の争いとなった小牧・長久手の戦いでは、信雄とともに家康に助力。蟹江城合戦では大野城の山口重政を救援、下市場城攻略にも参陣しており、蟹江城の滝川一益の降伏を仲介するなど、一定の活躍をするに及んだものと思われます。

戦後は、家康と秀吉の講和に際して折衝役を務めるなどしたほか、佐々成政と秀吉の間を斡旋するなど、織田家の末席にいた経歴を生かした世渡りで、変化する時勢を上手く乗りこなしていきます。

天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜

天正18年(1590年)、信雄が改易されると、秀吉の御伽衆として摂津・島下郡味舌2,000石を領します。有楽斎を名乗るようになったのはちょうどこの頃。なお、有楽斎からみて姪にあたる茶々・淀殿とは庇護者として深い関係にあったと考えられ、有楽斎は鶴松出産の際にも立ち会ったとの記録があります。

 

関ケ原ではまさかの活躍

ある意味、時勢を読み間違えることのなかった有楽斎は、秀吉の死後、家康と前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護するなど、早い時期から立場を明白にしています。

関ヶ原の戦いではきっちりと東軍に属し、長男・長孝とともに総勢、わずか450の兵を率いて参戦。しかし、寡兵ながらも小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦して戦闘すると、一時は本多忠勝の指揮下に入って、大山伯耆など、石田隊の横撃部隊を撃退しました。

また、長孝が戸田重政、内記親子の首を取ると、有楽斎自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げます。有楽隊は西軍の有力武将の首級を2つ取るというまさかの活躍を見せ、戦後に有楽斎は大和国内で3万2,000石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられるに及びました。

 

大坂の陣では大坂城に入城するも、引き際は鮮やかに・・・

関ケ原後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐したという有楽斎。大坂冬の陣の際には大坂城において、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担いました。(※一方、嫡男の頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立。)

冬の陣後、治長と共に和睦を締結させると、自身は家康に人質を出しますが、夏の陣を前にして再戦の機運が高まると、家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れています。

大坂城退去後は、京都に隠棲て茶道に専念。趣味に生きた有楽斎。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、有楽斎本人は隠居料として1万石を手元に残し、元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76才であったと言います。

その後、長政が戒重藩(後の芝村藩)、尚長が柳本藩の藩祖となり、いずれも1万石の大名として明治まで続く家系となって子孫を残しました。

 

有楽斎は裏臭い?

秀吉存命中は千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる有楽斎。後には自ら茶道・有楽流を創始するほどの優れた文化人でした。また、有楽斎が再興した京都建仁寺の茶室・如庵(じょあん)、現在は国宝に指定されています。

秀吉の存命中は、御伽衆(秀吉の側近として仕え、武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手を務める役柄)として仕えた有楽斎。正確な出典があるのかは確認していませんが、本来、自身は無楽(この世に楽しみ無し)と名乗ろうとしたところを、秀吉に止められ、有楽斎としたと言います。(漫画「へうげもの」)

この記事を書いた人

目次