夜討ちの大将・塙団右衛門(ばんだんえもん)

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江戸時代、軍記物や講談で民衆のヒーローに

本来の名は、塙団右衛門直之。出身地や素性がはっきりとしない、まさに謎だらけの戦国武将。秀吉以来の豊富な軍資金を使って、全国の牢人衆をかき集めた豊臣家。まさにその牢人のイメージにぴったりの人物です。

※余談ですが、浪人(ろうにん)はもともと、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味しており、武士でなくても身分を問わず使われた言葉。対して牢人(ろうにん)は、主家を失うか去るかして俸禄を失った武士のことを言います。特に使われたのは戦国期で、いわば狭義の身分語でした。太平の江戸時代、中頃になって、牢人も浪人と呼ぶようになったそうです。

彼の前半生のストーリーの中には、猟夫より身を起して戦に参加。功をあげて織田信長に士分として取り立てられたものの、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺してしまったことで放逐。全国を牢人として放浪したという話など、魅力的で劇的なものがズラリ。

後世、真田信繁が真田幸村として人気になったのと同様に、「難波戦記」などの軍記物や講談などで、塙団右衛門(ばんだんえもん)の名も有名になりました。

 

主君・加藤嘉明と不仲に、奉公構を食らってしまう

朝鮮出兵の頃には、加藤嘉明に臣従。およそ4反とも言われる(約1.3m×10m)青絹地の日の丸を背中に背負って派手に活躍しました。(※武功の中には、海戦で敵の番船三艘を8名で乗っ取るという手柄など。)

やがて1000石の知行をもらう鉄砲大将に出世。その頃から、塙団右衛門直之と名乗ったのではないかと言われています。

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、鉄砲大将でありながら命令を無視。勝手に足軽を出撃させたため、加藤嘉明から叱責を受けます。これに憤慨した直之は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」との漢詩を書院の大床に張りつけ、なんと禄を捨てて出奔してしまったのでした。

当然ながら、漢詩を見た嘉明も激怒。奉公構(※他家が召抱えないように釘を刺す回状。武士にとっては切腹につぐ重刑であったと言えます。この目にあった代表格に後藤又兵衛。)を出して、他の大名が団右衛門を雇うのを妨害したと言います。

しかし、その後もなんとか知行を得ることができた団右衛門

小早川秀秋のもとで1000石。(※秀秋が死去すると再び牢人に。)

その後、松平忠吉に仕えますが、こちらも忠吉が死去したことで、再度牢人に。

次いで、福島正則に再び1000石の知行で、馬廻として召し抱えられますが、加藤嘉明が正則に直に抗議したことで罷免。最終的には奉公構が効力を発揮したこととなりました。

 

大名への出世を夢見て大坂城に入城

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まると、チャンスとばかりに豊臣方に参加。牢人衆の1人として大野治房に預けられ、和議が迫った頃には志願して、蜂須賀至鎮の陣に夜襲をしかけます。そして、家臣・中村右近を討ち取るなど戦果をあげると、団右衛門は橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、「夜討ちの大将、塙団右衛門直之」と書いた木札をばらまかせました。(加藤嘉明に対してのあてつけと言われています。※本町橋の夜戦

その活躍から、翌年の大坂夏の陣では出生して部将の1人に任じられ、緒戦における紀州攻めにおいて大野治房の指揮下で出陣すると、浅野長晟と対戦。4月29日、樫井の戦いでは一番槍の功名を狙って突出し、治房本隊との連携が取れないまま討死しました。

この時、大将の大野治房は願泉寺で食事をとっており、敗報を聞いて慌てて退却したとも言われています。

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