真田信吉(のぶよし)~信之の庶長子~

信之の長男になる真田河内守信吉(かわちのかみのぶよし)。実母は清音院殿で、大河・真田丸で言うところの「おこうさん」の実子にあたります。

こう・清音院殿は真田の当主であった信綱の娘ですから、時勢が違えばこの信吉こそが、真田信之の正統な嫡男であったかもしれません。しかし、時代は徳川の世の中。信之の正室という立場も清音院殿ではなく、稲・小松姫へと変わっていったのでした。

このことは後世、信吉の死後に思わぬ問題を引き起こすことになっていきます。

 

大坂の陣。叔父・幸村とは敵対する立場に。

元服した信吉は大坂の陣において、当時、病気を患っていたと言われる父・信之の代わりに、弟・信政とともに徳川方として参陣しました。

信吉と弟の信政の2人は信之正室・小松姫(稲)の弟にあたる本多忠朝の麾下に配属。真田の一門衆で重臣・矢沢頼幸(三十郎)も伴っていたと考えられています。

1614年(慶長19年)大坂城の総構えの一部に真田丸が完成する中、11月中旬には徳川方が大坂城の周囲に集結して完全に包囲すると、いよいよ大坂冬の陣の本格的な衝突が始まりました。

豊臣方の叔父・真田幸村とその息子真田大助が目をみはるような活躍をする中、信吉・信政兄弟は、大坂城のやや東北の方向にある鴫野村付近に陣を置いたと言われています。(※総勢約2000人)

そして翌年の大坂夏の陣では、再度、病気の父・信之の代わりに弟・信政とともに、約2300人を率いて井伊直孝麾下に着陣。

徳川方が天王寺口と岡山口で豊臣方と戦闘を繰り広げ、信吉・信政兄弟も天王寺口の右翼の先鋒に抜擢されますが、毛利勝永らの隊と激戦になり多くの戦死者を出しました。

叔父・幸村(信繁)との直接の戦闘はニアミスで回避されたものの、幸村(信繁)が豊臣方の中核として真田丸などで活躍したことや、その活躍の差異を比較され、信吉らは徳川方内で肩身の狭い思いをしただけでなく、幸村(信繁)との内通の疑念の払拭など、気苦労の多い戦いを強いられるに至りました。

 

沼田3万石を相続。しかし・・・

大坂の陣では敗走を強いられた真田信吉。戦後、父・信之が本拠地を沼田から上田に移したことにより、沼田3万石を相続して大名格となります。その後、信之が上田から松代10万石へと加増転封された後も、信吉の沼田3万石は形を変えず継続しました。

寛永4年(1627年)8月、徳川家老・酒井忠世の娘(松仙院)と婚姻。また、側室との間に、長男・熊之助、次男・信直(※信利とする場合もあり)の二子を儲けます。

沼田3万石は長男・熊之助が早世したことから、次男・信直が引き継ぎます。しかし、この信直、松代藩の後継に不満を抱いたことから、沼田領で強引な検知をおこなうなどして、石高3万石を14万5千石に引き上げるという圧政を引きます。当然、領民の反発を受けるにあたり、真田信直は改易の憂き目にあうこととなりました。

こうして真田昌幸がこだわった沼田の地は、残念なかたちで真田の手から離れていったということになります。

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