伝説の出城・真田丸の完成まで~アイデアは又兵衛?~

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣にて、豊臣方の真田幸村(信繁)が大坂城平野口の南に構築したと言われる曲輪(※城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した出丸

言わずと知れた、NHK大河ドラマ「真田丸」の名称にもなっている、幸村が歴史上稀に見る大勝利をあげた出城のそれです。

しかし近年、その大河ドラマ「真田丸」の城郭考証者を担当されている千田嘉博(せんだ よしひろ、奈良大学文学部文化財学科教授)氏によって、新たな事実があきらかになっています。

 

通説や陣図屏風絵図とは異なる形状の真田丸

千田嘉博氏の研究によって、まずは真田丸の北側には幅200メートルの谷があることから、大坂城から孤立した立地にあり、大坂城と隣接していたという通説が誤りであることが判明しています。またその規模についても、これまで一般的に伝わってきたもの(※絵図では大坂城に隣接した半円形の出城として描かれていることが多い。)よりもはるかに大きい出城であったはずとの指摘されています。(※通説では南北220メートル、東西140メートル)

千田嘉博氏は『浅野家文庫諸国古城之図』の中の『摂津 真田丸』の絵図を調査しており、これによって、真田丸は半円形ではない不定形の形の城との結論に至っておられます。(※その形状について、城郭史学会・坂井尚登氏は、「正方形に近い五角形」とされています。)

 

独立した出城・真田丸 ~攻撃は最大の防御~

さらに、『摂津 真田丸』の研究によれば、徳川軍の迫る南側だけでなく、大坂城に面した北側にも堀を設け、敵からの攻撃に対処した曲輪を備えて描かれていることから、真田丸が大坂城に従属した施設だったのではなく、全方向からの攻撃に備えた独立した出城であったことが判明しました。(※多くの絵図により、真田丸と惣構の間が土橋で繋がっていることが確認できるため、真田丸が孤立していないと指摘する説ももちろん存在しています。)

つまり、真田丸を設けた目的は、大坂城の弱点補強のための簡易的な出丸ではなく、徳川軍をおびき寄せて打撃を与える、より積極的な「攻撃のための出城」であったことが判明しました。

 

真田丸を造ったのは、後藤又兵衛!?

結果として、大坂冬の陣で最大の戦闘が行われ、真田幸村(信繁)がその武名を全国に知らしめた真田丸での戦い。しかしその築城への経緯や時期などに関しても諸説あるのが現状です。(※まさに謎だらけ・・・)

もちろん真田幸村(信繁)が独自の判断で築城したというものもあれば、もともとは後藤又兵衛基次が築く予定だったものを真田幸村(信繁)が途中から引き継いだという説も存在しています。これは、大坂城防御の強化のため、豊臣方全体で立案のうえ、最初から玉造口に出城を築く予定であったという説。この説では、出城普請に又兵衛が深く関わっており、当初はその守備も任される予定であったとされていますが、豊臣方の大幅な作戦変更により、又兵衛が遊軍にまわされたことで、真田幸村(信繁)がその後を継いで玉造口の出城(真田丸)に入った、という内容になります。

 

五人衆の結成と真田丸

当初、又兵衛が出城を築くために大坂城外に材木を集めていたところ、この場所に訪れた真田幸村(信繁)が独力でたちまちのうちに出丸に仕立て上げてしまったと言われています。もちろん、断りもなくいつの間にか材木が運び出されて、完成に近づいていることを知った又兵衛はたいへん怒ります。

この騒動の対処に大野治長ら豊臣方首脳部はかねてからの懸案事項であった、大名格ではない後藤又兵衛基次と明石掃部全登を、真田幸村(信繁)、毛利勝永、長宗我部盛親ら三人と同格として扱うこと。つまり、彼らを豊臣方の現場指揮系統の五人衆として結成することを提案し、又兵衛の他、その他四人の当事者たちもこれに納得して事態は収束したと言います。

また、真田幸村(信繁)が、独力で出丸を仕立て上げるというような行動に出たのは、彼の大坂城内の風聞にあり、その内容は、兄・信之が徳川方に奉公していることや、過去に徳川家康に敵対したのも幸村(信繁)ではなく、父・昌幸に付き従ってのことであるから、幸村(信繁)が敵か味方か疑わしい。というものでした。さらにここへ、秀頼の信頼を勝ち得ている幸村(信繁)へのひがみも加わります。

ここで、真田幸村(信繁)、大坂城外の出丸に入って守備につき、敵の攻撃を一手に引き受けることでこの疑いを晴らそうとしたのだと言われています。

そして、この判断は後に現実のものとなるのでした。

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