信繁長女・すへとその夫・石合十蔵

すへは真田信繁(幸村)と堀田作兵衛興重の妹の間に生まれた長女。小県長窪郡の本陣を運営する石合十蔵道定に嫁ぎました。本陣とは大名向けの宿のことで、石合家は地元でも名主、有力者であったと言えます。(※長窪宿は中山道で最も古い本陣だとも。)

とは言え、元は大名クラスの中央官僚ともいえた信繁(幸村)の娘・すへとは、家格が合わないという不都合があったせいか、すへは堀田作兵衛の養女という扱いで石合家に嫁いでいるようです。(※真田丸の初期に登場していた、堀田作兵衛の妹・梅は史実としても早い段階で死去されているようです。

ちょうど大坂の陣の最中、この石合十蔵に信繁(幸村)から出された書状が現存しており、信繁(幸村)の娘への親心が垣間見えます。

 

 

信繁(幸村)から十蔵へ

書状は、大坂冬の陣の真田丸での信繁(幸村)の活躍以降、夏の陣が始まる間のものと考えられ、自身や作兵衛に関しては、もはや死をも覚悟しているという内容です。この時期、信繁(幸村)は秀頼の意向とは別に、徳川方との再戦は確実と踏んでいたということが、この書状からも見て取れます。

そんな中、真田信繁(幸村)から石合十蔵道定への頼みは、「どんなことでもすへのこと、貴方の考えとあわないところがあっても、お見捨てなきよう、頼みいります。」ということでした。

 

大坂夏の陣と、石合十蔵・すへ夫妻のその後

すへの育ての親とも言える堀田作兵衛興重は、信繁(幸村)の入城を聞いて自身も大坂へ駆けつけ、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で信繁(幸村)とともに討死しています。この戦いからずいぶん時間の経った1639年 (寛永16年)、幕府の目付けがすへの存在に気付き、詮議(※調査・取り調べ)に発展しますが、石合十蔵は江戸藩邸に赴き、自身らの結婚が大坂の陣以前であることを堂々と申し開きをし、事なきを得たと言います。(※十蔵とすへは作兵衛の遺児も養育していましたが、こちらは大坂の陣後の出生であったことから問題にはなりませんでした。)

すへはその後も幸せに生き(想像です・・)、この3年後に天寿を全うしています。

関ヶ原の後に、武士を捨て本陣を経営した石合家。この後も続いており、幕末の動乱・鳥羽伏見の戦い以前には、仙台藩が中山道を使用して京の朝廷のもとへ馳せ参じたという記録あるようです。この際、仙台藩主を無事送り届ける責任者の立場にあったのが、仙台真田家9代の真田喜平太(真田幸歓)でした。洋式兵学者・参政として戊辰戦争でも活躍した真田喜平太は、この道程、大奔走して徳川将軍の入る3日前には京に到着し、仙台藩の面目を保ちました。

もしかするとこの際、真田喜平太は、真田信繁(幸村)という先祖を通して縁のある、石合家の本陣に宿泊していたかもしれません。

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