今も山深く東京からも比較的近いにもかかわらず、訪れるのが大変な吾妻郡。
そこにそびえる山々は、標高こそ高くはないが「天険」という呼び名がぴったりな岩山が点在している。岩櫃城が建てられたのも、そんな険しい山の尾根筋。難攻不落と言われたこの城で、もし武田と織田が戦っていたら・・・
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。
城郭の規模は1.4k㎡と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。
その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆(幸村の祖父)に岩櫃城攻略を命じました。
永禄4年(1561年)幸隆は2度に渡る岩櫃城の力攻めに失敗。
ですが、幸隆は城内にいた海野一族に内応を取り付けることに成功します。(※真田家は海野氏の支流と言われます。信玄がこの上州先方衆に幸隆を抜擢したのも、そんな事情がありました。)
永禄6年(1563年)10月、幸隆は500の手勢を引き連れ岩櫃城を再度攻撃。城内の内応者が城に火を放ち、この時は難なく落城に成功することになりました。これ以後、岩櫃城は武田家上州攻略の前線基地として重要な役割を果たすこととなります。
信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信網が収まりましたが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続することとなります。
真田丸 第1話「船出」において、織田軍に追い詰められた勝頼は、真田昌幸(岩櫃城)と小山田信茂(岩殿城)に、それぞれの城に籠ることを進言されます。
結局、勝頼は身内の信茂の意見を聞き入れ、岩殿城そ選択。ですが、この信茂までにも裏切られ、天目山の山中で自害して果てました。
もしも勝頼が、この時、険しい地形を巧みに利用した岩櫃城に向かっていたら、後の展開はどうなったでしょうか?
遺構も明瞭に残り、登城自体もそれほど厳しくないので、真田氏の活躍に思いを馳せながらいちど登ってみたいものです。
城跡は天険の要害・岩櫃山の中腹にあります。
天正十八年(1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田城の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。
そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました(『現地案内板』)。
出典:城と古戦場~戦国大名の軌跡を追う~