真田信尹(さなだのぶただ)

真田信尹
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昌幸とは双子の可能性も!?信繁も尊敬する叔父・信尹(のぶただ)

真田幸綱(幸隆)の四男で、昌幸の弟。信幸・信繁の叔父にあたる人物です。大河「真田丸」では、栗原英雄さんが熱演する物語の重要人物。

史実の信尹は、後に松代藩となる大名・真田家とは別に、分家である旗本真田家を興しました諸説ありますが昌幸と同年に生まれたとの可能性もあり、なんと双子だったかもしれません。

そんな信尹の歴史は、昌幸と同じく幼年期から人質として甲府に出仕するところから始まります。
当時の真田家の主君・武田信玄の命により、甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(※和野、鹿角ともいう)の名跡を継ぐことになります。

※これは、昌幸が武藤を称したのと同じく、信玄から厚待遇を受けていた証拠と言えます。真田家の四男でありながら、武田の名家を継がせる指示を信玄が出していたことは、信尹も昌幸と変わらず、優秀な人物だったのでしょう。

そして、武田勝頼に近侍して槍奉行を務め、加津野市右衛門尉信昌と名乗っていました。
有名な甲陽軍鑑によると、武田家では騎馬15、足軽10を率いる槍奉行としての地位にあったということです。

元亀2年(1571年)1月、武田信玄が北条綱成の守る駿河深沢城を陥落。信伊はこの合戦で大活躍。戦いの際に、綱成の「黄八幡」の旗指物を奪い取ったというエピソードも残っているほどなのです。
昌幸と同じように、武田家の家臣団の一翼を構成していたのは間違いないでしょう。

 

長篠の戦い後、昌幸と同じく真田家に復帰

天正10年(1582年)3月、武田家滅亡後に真田姓に復姓し、その名を「信尹」と改名しました。

(少し「真田丸」のストーリーは趣が違うかも知れませんが)主家滅亡後の信尹は当初、北条氏に属し、天正12年(1584年)から徳川家康に仕えたということです。
兄・昌幸が北条家から徳川家に乗り換える際には間を取り持ち、徳川家では5000石を与えられ、後に1万石に加増されますが「それだけの働きをしていない」として浪人するというエピソードも。
※一説には小田原征伐で武蔵江戸城の無血開城で功績を立てたにも関わらず、家康からの恩賞に不満を覚えて家康の下を離れたともされています。

 

信幸とはまた、別系統として真田家の存亡に尽力します

その後、池田輝政を介して会津の蒲生氏郷に仕え、文禄4年(1595年)になって氏郷が死去した後、蒲生騒動がおこると、慶長3年(1598年)には再び徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参します。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)の大坂の陣で御使番・軍使として功績を挙げ、それにより1200石を加増されて5200石になりました。

※大坂の陣では、幸村(信繁)を徳川方につかせるための交渉や、また幸村討死の際に首実験をおこなったのもこの信尹と言われています。

その後は幕臣として徳川家に仕え、寛永9年(1632年)5月4日に病死。享年86。子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕え、子孫は4つの系統に分かれると、その内の2家が明治維新まで存続したとのこと。

繁栄の礎になった真田信尹。武田滅亡後は真田本家とは別行動を取り、上記の徳川・真田の橋渡し役以外でも、絶えず昌幸の下には情報を送り続けたとされ、真田本家が生き残るための助力を分家として惜しまなかったと考えられています。

【真田丸では・・・】

早くから徳川に仕えたことなどは信幸と同じく、様々な気苦労にも耐えつつ目的をきちんと果たした人物だと想像できます。しかし、昌幸とは双子だったかもしれないという説や、家康についたり離れたりというエピソードも加え、実際には豪胆な一面もあったのではないでしょうか。真田丸で詳しく信尹の物語が語られることはないでしょうが、上記のような内容を把握しておくとより深く楽しむことが出来そうです。

※と言う訳で、信尹は全50話のほぼラストまで登場が予想される人物です。

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