豊臣家の親族としての存在感
天正10年(1582年)、高台院(ねい)の兄である木下家定の五男。
秀吉、近江の長浜に城を持ったころになります。
幼名は木下辰之助。以後、秀俊 → 羽柴秀俊(豊臣秀俊) → 小早川秀秋 → 秀詮(ひであき)と変名。(※関ケ原当時の、秀秋が最も一般的ですね。)
小早川秀秋は生まれて3年後には、義理の叔父にあたる秀吉の養子となって、正室の高台院(ねい)に育てられました。
少年時代はけまりや舞などに才能があったと言われる他、貧者に施しをするなどたいへん優しい一面があったとも。
この後、急激に出世していく秀吉のもとで、親族の秀秋はたいへん重要な存在になっていきます。
天正17年(1589年)、丹波亀山城10万石を拝領。
文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任。「丹波中納言」と呼ばれるに至ります。
この時期には、諸大名からも関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者と見られていたと考えられ、その存在感を増していきました。
秀頼誕生による運命の急変
しかし、文禄2年(1593年)、秀吉の実子(※諸説あり)、秀頼が生まれると秀秋の運命は急変します。
当時、秀吉の参謀・黒田孝高(官兵衛)が、毛利家の重臣・小早川隆景に「秀秋を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との話が持ち掛けられたと言います。
隆景は自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て、この当時、羽柴秀俊と呼ばれた秀秋は、小早川秀秋として新たな人生をスタートすることになりました。
※この養子縁組を契機に小早川家の家格・待遇は急上昇し、隆景の官位は中納言となって、以後、五大老の一角を担うことになります。
文禄4年(1595年)、秀次事件に連座して秀秋は丹波亀山城を没収されますが、隆景が隠居したせいで秀秋はその所領、筑前30万7,000石を相続することになりました。
武勇に優れた将とも
慶長の役が初陣とされている秀秋。
明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かい、秀秋は自ら馬に乗り退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃。数多くの敵兵を討ち取るなど武功を上げたとも言われています。
しかし、釜山方面の守備を任されていたにも関わらず、勝手に蔚山倭城の加藤清正軍の救援へ向かった事や、大将である秀秋自ら先頭に立って敵将を追撃した事が「軽率な行動」であると批判される結果を生む事となってしまいました。(※諸説あり)
帰国した秀秋には秀吉より越前北ノ庄15万石への転封命令が下ります。
この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することとなりました。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去。
豊臣政権が五大老による合議で運営されはじめると、秀吉遺命として翌慶長4年(1599年)2月5日付け、徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、旧領の筑前名島30万7,000石へ復帰することになりました。
関ケ原、そして裏切り
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、秀秋はこれを傍観。
※度々使者を送るにも関わらず、傍観し続ける秀秋に家康は苛立ち、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたという説。
現在では、合戦中の周囲の音量から推測するに、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかったのでは?もしくは家康からとは気付けなかったのでは?と考えられているようです。
ともあれ秀秋は、家康の催促に応じ西軍の大谷吉継へ攻めかかります。
この秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、大谷吉継討死。西軍は大ダメージを受けます。
(※この際、小早川勢の家臣の中には、離反に納得できなかった為、無断で撤退するものも。)
これにより大勢は決し、戦局に有利な布陣をひいていたはずの西軍は夕刻までに壊滅、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡しました。
(※なお、翌日以降に行われた石田三成の本拠佐和山城攻めなどにも秀秋は出陣しています。)
この秀秋の裏切りは、当初から秀秋家老の稲葉正成、平岡頼勝と、その平岡の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われたと言われています。
・長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所様の為に動いている」と書かれた連書状が現存。
・一方で石田三成、大谷吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を秀秋に対して約束する書状も現存しています。
秀秋は実際に、直前まで悩んでいたことでしょう。
早世する人生
戦後の論功行賞では備前と美作国と備中国東半にまたがる岡山藩55万石に加増。大出世して大大名となったわけですが、この2年後には急死してしまいます(享年21歳)。
※アルコール依存症による内臓疾患が現代では有力説。秀秋の過度な飲酒については、公卿の近衛信尹(後に関白に就任)もこれについて語っています。
そして小早川家は無嗣断絶(※後継ぎがいないこと)により改易。(※これは徳川政権初の無嗣改易となりました。)
その家臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため、仕官先がなかったなどと言われることがありますが、実際には浪人を経て、大名となって立藩した平岡頼勝(美濃徳野藩初代)などがいます。
秀吉の親族として、当初・その存在に重きをなされた秀秋は、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返ったことで、豊臣家衰退の契機を作る至ります。
優柔不断かつ暗愚な武将として後世、語りつづけられている訳ですが、木下勝俊、利房、延俊、俊定、という4人の兄と、秀規という弟も、関ケ原の合戦の折には、他の兄弟たちも東軍・西軍にわかれて与しており、当時の世情が如何に複雑であったかをあらわしているのではないでしょうか。
この五人の兄妹や秀秋の他にも、秀次やその父親など、秀吉・北政所の親族には数奇な運命を辿った人物がたいへんに多い事実。
歴史的なバックボーンを持たずに急成長した豊臣家の限界値がそこに存在していたのかも知れません。
その人気のなさのせいか、秀秋に対する実証的な研究が進められているとは言い難く、子孫を残さなかったことや早世であったがために不当な評価を受けているひとりなのかも知れません。
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