政宗のずんだ餅(政宗の多彩)

大河・真田丸、白装束での登場シーンや名物・ずんだ餅を「天下餅」とかけて秀吉とともにつくシーンなど、何かと話題の独眼竜・政宗。歴史的エピソードも秀吉と並んで、たいへん多い政宗の多彩な才能をご紹介します。(※かなりたくさんありますので、あくまでこちらは第1弾。

政宗の重臣・片倉小十郎重長(重綱)が、信繁とはたいへん縁深い人物となるほか、政宗と信繁とは同世代(※一説に同い年)。今後、真田丸にはたびたび登場することでしょう。

政宗の逸話を三谷ワールドがどのように料理していくのか?当ブログでは注目してご紹介したいと思います。

 

目次

政宗のファッションセンス

小田原征伐後は秀吉に臣従し、文禄2(1593)年、文禄の役に従軍した政宗。この際の伊達家の戦装束(いくさしょうぞく)は非常に豪華絢爛(ごうかけんらん)なもので、上洛の道中において巷間(ちまた)の噂となりました。約1500人とも、3000人とも言われたこの軍勢の見事さに、他大名の軍勢が通過する際は静かに見守っていた京都の町衆(※当時の世論の中心、現在のマスメディアのようなものです)も、伊達勢の軍装の素晴らしさに歓声を上げたと言います・このことから、派手な装いを好み、そして着こなす人を指し、「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになりました。

 

鄙の華人(田舎の都人)・伊達政宗

政宗のセンスの良さはファッションのみにとどまらず、能楽や、書物、茶道など、あらゆる分野に秀でていたと思われる逸話があります。「伊達者」エピソードの翌年の文禄3(1594)年に開かれた秀吉主催の吉野の大花見では、徳川家康、前田利家、豊臣秀次の他、著名な文化人に交じって政宗も参加。和歌を詠むのが通例の花見で、政宗が詠んだ5首は大絶賛され、参加していた多くの文化人も認めるところとなりました。

奥州の田舎大名とたかをくくられていた政宗でしたが、この件で「鄙の華人」=つまり、田舎の中の「都人」として称えられたと言います。この当時、秀吉の周囲に数多くいた地方の大名たちの中でも、政宗の文化的教養の高さは群を抜いていたと考えるべきでしょう。

 

料理へのこだわりと腕前もプロ級

ルイス・フロイスの日欧文化比較によると、「ヨーロッパでは女性が料理を作る。日本では男性が料理することが多い。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている。」という記述があるほどで、この時代には、料理の技能は武将の教養として重んじられていました。

「馳走とは旬の品をさりげなく出し、主人自ら調理してもてなす事である。」との言葉を残した政宗。敬愛したとも言われる千利休の影響が見て取れるひと言です。

太平の世になると、美食を極めることに目的を変えて料理研究を続け、日々の食事の献立も自らたっぷり時間をかけて考えたそうで、仙台の華やかな食文化の礎を築いたのは政宗の料理好きがこうじて成り立ったのかも知れません。また、こうして研究された政宗の食の品々は、政権の中枢への献上品や他大名への贈り物などとして機能し、仙台藩の安定した運営に一役買ったものと思われます。

 

政宗考案の名物「ずんだ餅」

政宗の料理趣味も元々は兵糧開発が主眼。特に、ずんだ餅(納豆餅)は政宗の研究の末に開発されました。(※他にも名物・凍り豆腐)

仙台においては、夏の風物詩とも言われるずんだ餅。「ずんだ」の由来は、「陣太刀(じんたち)」が、方言の「じんだづ」「ずんだづ」、「じんだ」または「ずんだ」に転訛していったものと言われています。

この記事を書いた人

目次